地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2017年 08月 29日 ( 1 )

 「会高通史」の「戸ノ口にまつわる悲話一つ」に、「暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た」とある。当時の状況を知る方にとっては、この表現で、特攻隊員が艦に突入前に許された最後の帰省であることが直ぐに分かるようだ。
 この最後の帰省については、先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23831534/

 主として「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」で紹介された情報によった。以下に再掲する。
 
 「信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
 両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという」

 この整理時点では、この情報源は地元ならではのものだろうと想像した。主として「会高通史」だろうと思っていたところだった。
 しかし、今回、その「会高通史」を確認してみると、こちらに紹介される内容より詳しいことが分かる。

 「上官に取り上げられた『歎異抄』の代わりの本を所望された」とした情報は、「会高通史」では「最後まで読書と思索を廃さなかった青年将校に乞われるままに数冊を贈って夜半分かれた」と記される。
 また、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、父啓治氏がこの夜は枕を並べて寝たという情報は通史にも記されるが、信氏が去った後の母シゲさんの行動については全く記されていない。

 今のところ、この情報の元になっているのは「明治学院百年史」にしかたどりつけない。綿密な地元取材を行ったことは確認できるし、当時、小林先生や情報通の菩提寺のご住職が御健在だったことも確認できる。その取材情報だろうと推測する。
 信氏の最後の状況も「会高通史」より「明治学院百年史」の方が詳しい。同じ隊の生き残りの方の取材によることが記されている。

 最近、「Web東京荏原都市物語資料館」で、最後の帰省が許される頃の信氏の所属部隊の様子やそこから信氏の最後の状況に至る経緯も明らかになってきているようだ。こちらは、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報から深められたようで、近々、その冊子が出版されるとのことだ。

 照らし合わせてみたいのは、信氏の最後の帰省以降、小林先生に届いた便りと足取りのかかわりだ。
 「会高通史」には「国内の基地を飛び継いで1週間後の決行になる」とあり、その間に「2、3回心境をしたためた葉書が送られてきて、太刀洗からの便りが最後だった」とある。
 最初の便りは、恐らく長野県松本の浅間温泉富貴湯旅館に向かう途中、或は旅館について直ぐであろうことが想像できる。そして、二通目の便りは想像が難しいが、三通目の最後の便りが、福岡の「太刀洗」とのことだ。
 確認を進めると、ここには北飛行場があって、ここから終戦前の5月25日に重爆特攻隊が出撃していたという。
 この情報とどうつながるのかなということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-29 09:10 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)