地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2017年 04月 29日 ( 1 )

 長谷川信氏は、「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑥」で示したように、明治学院から学業なかばにして「学徒出陣」し、「特攻隊員」となって戦死をとげる。
 その「学徒出陣」と「特攻隊員」については、何となく分かっているような気になっているところもあるが、その概略を確認する。そして、そこに「学徒出陣」後の略歴情報を重ねてみる。

 まずは学徒出陣だが、第二次世界大戦終盤の昭和18年(1943)に兵力不足を補うため、それまで兵役免除とされていた高騰教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させたこととのことだ。
 その年の10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催、陸海軍省等の後援「出陣学徒壮行会」が実施される。
 その壮行会が終えると、学生は徴兵検査を受けて12月に陸海軍へ入営することになる。その入営時に、幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったという。

 次に特攻隊だが、こちらは、生還の見込みが低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする攻撃を行う攻撃隊のこと。
 その特攻隊員は、主に現役士官/将校と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていたとのことだ。
 信氏が所属した陸軍の場合、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校の卒業生と下士官からの昇進者(少尉候補者)で構成されていたとのこと。
 また、予備役士官は、主に特別操縦見習士官出身者から構成されていたという。
 下士官は陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となったとのことだ。

 「明治学院百年史」では、長谷川信氏の陸軍入隊後の動向について、その岐路での選択判断について考察しているが、そこから略歴情報を拾ってみる。
 
 学徒出陣することになった信氏は、10月27日に故郷で徴兵検査を受けて、甲種合格となり、12月1日に陸軍へ入隊する。
 陸軍に入った信氏は、幹部候補生試験を経て特別操縦見習士官(第2期)に合格する。そして、昭和19年2月から熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける(約六か月)。

 昭和19年7月31日付けで「満州」の第101教育飛行団第23教育飛行隊に移される。
 この隊は、地上の目標を急降下爆撃する軽爆撃機の操縦者を養成するためのものものであり、特攻隊員の補給源とされたとのことだ。

 ここで訓練を重ねて、昭和20年2月初旬特別攻撃隊の命令を受けることになる。
 2月10日少尉任官し、その日に編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。
 この隊は、台湾の第8飛行師団に配属されることになるのだが、信氏は、4月12日早朝、その台湾への移動中に戦死を遂げる。

 この略歴を眺めるだけでも、信氏が「特攻隊員」となって戦死をとげることになる道筋が見えているような気がする。
[PR]
by shingen1948 | 2017-04-29 09:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)