地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2017年 03月 20日 ( 1 )

 「ウィキペディア」で「会津高等学校」のボート部について次のように解説されている。
 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある。

a0087378_6311873.png 今回の確認で、その戦前の練習拠点は中田浜ではなく、旧道の十六橋手前付近であることが分かる。その位置を記す。
 ここには、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>」の案内柱が建っているとのことだ。

 「学而会館」の案内にある「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」との解説と照らし合わせると、昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館したという事なのだろうと思う。

 「Web東京荏原都市物語資料館」に、学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所がある。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」に、彼の思いとして次のように記されているという。孫引きさせていただく。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 なお、このページでは、長谷川信少尉の次のような遺言を元に建てられた石碑を訪ねているのだが、その「長谷川信 碑」の現在の位置もプロットしておいた。
 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。
 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-03-20 09:28 | ☆ その他の話題 | Comments(0)