地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2007年 08月 09日 ( 1 )

世良修三の暗殺事件を確認していて、気になることがいくつかある。その一つが、仙台藩は、何故密書の内容を知ることになったのかということである。
これは、修三が誰に密書を預けたのかを丁寧に確認していくことで自分なりに納得できた。

世良が福島藩士に密使を依頼する

幕末当時は、11代板倉勝尚が福島藩主だが、藩の情勢は、心情的には奥羽諸藩に同情しながらも、藩論としては、新政府側につきたかったのが本音であったようだ。これは、他の弱小奥羽諸藩でも同様だったと思われる。したがって、「錦の御旗」を背負った奥羽鎮撫総督府の命令は、快く引き受けやすい状況にあったということが想像される。
もっとも、世良にしてみれば、それらの状況を考慮よりも、奥羽鎮撫総督府の参謀という立場の公人として、福島藩士に密使を命じるのはごく当然ということであったろうと思う。

福島藩士が、依頼されたことを仙台藩に報告する
 
当時の福島藩としては、東北の盟主的な存在である仙台藩は上部組織であり、この意向を無視することは出来ない。東北の盟主的な仙台藩には、当然、報告、連絡、相談をしていくことになる。しかも、近隣でもある。密使を依頼された件についても、抜け駆けをするようなことは許される状況ではない。
奥羽鎮撫総督府でさえ、仙台藩の意向は無視できない状況だった。新政府の方針を具現化する手段は、仙台藩を動かすことしかなかった。仙台藩の動向は、世良にとっても、無視できるような状況ではなかった。

これらの事情から、密書は福島藩士から客自軒にいる仙台藩士に報告と相談がなされたということが、推定される。

いずれにしても、結果として福島藩は、「世良修蔵暗殺事件」の一端を担わざるを得なくなった。しかも、その暗殺は、福島城下で行なわれてしまった。福島藩としては、小藩ゆえの一つの悲劇を背負わされてしまった迷惑な話だったかもしれないと想像する。

気になるもう一つのことは、世良を暗殺したことを浅草屋宇一郎は後悔したということらしいということだ。世良の位牌を大切にしていたというこの辺の事情だ。
世良の使命を理解できなかったことへの後悔だったと考える人もいるようだが、そうではないと思う。河野広中を中心とした自由民権運動の人々との付き合いの影響と見る。

河野広中は、彼らの旅籠の上客である自由民権運動者のトップである。浅草屋は、客自軒と姻戚関係にあり、その客自軒は、自由民権運動の本拠地であるという関係の中で、自由民権運動者との付き合いの中で生まれた負い目ではなかったかと思っている。
彼の経歴は、三春藩の下級武士である。三春藩は、自藩を無血で開城するため政府軍を手引いて二本松藩を攻め落とすのに貢献する。彼もこれに直接かかわっているとされている。同盟を裏切って新政府軍についた河野広中が、この地の自由民権運動で大活躍し、彼が思い描く方向に日本は動かされているのだ。

  この影響だと見る。 

  なお、「戊辰戦争における三春藩の動向と河野広中」については、先に書いた。
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by shingen1948 | 2007-08-09 05:14 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)