地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2007年 08月 08日 ( 1 )

  この界隈に若い頃に住んだこともあるのだが、この長楽寺を訪れたことはなかった。「紅葉館」という下宿屋には友人が下宿していて、出入りしていた。河野広中が命名した料理屋の名残だということぐらいは分かっていた。
  興味がない時には何も見えていないということだ。
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  この寺は、浅草屋宇一郎の墓があるだけでなく、戊辰戦争から、明治時代にかけて、この地域の中心的な出来事とかかわっているようだ。
  半沢氏のフィールドワーク地図のメモには以下のような記述がある。

「慶応4年より奥州越列藩同盟の軍事局―裁判所―自由民権演説会場」

  これらのことと、この近辺の旅籠の出来事が重なっていることがわかる。世良修三の暗殺とのかかわりは、奥州越列藩同盟の軍事局としての長楽寺とのかかわりである。恐らく世良暗殺の密議もここで行なわれたであろうか。
  紅葉館の河野広中とのかかわりは、自由民権演説会場という自由民権運動とのかかわりである。
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これは、天狗党の碑だが、右側に並ぶのが、この寺の開祖者の碑らしい。
この「曹洞宗万年山「長楽寺」は、半沢氏のメモによると、もともとは「今の新潟県村上市より本庄氏が菩提寺として移転開創」したらしい。

半沢氏のフィールドワーク地図の「本庄繁長の墓」には、以下の説明メモが記されている。

上杉家臣福島城代長楽寺開基

福島城代
1 繁長(1538-1613)戒名 長楽寺殿傑伝長勝大居士
2 重長  (繁長の旧家臣・今腰浜、鎌田舟戸・
3 政長           八島田吉野などに居住)

また、この寺の周囲が一段高くなっていているのだが、それが外堀跡で、やや奥まって元福師女子寮の周囲辺りが内堀跡のようである。つまり郭内の寺であるようだ。

仙台烏組天狗党の供養塔

「からす組」は「衝撃隊」で、仙台藩士・細谷十太夫によって結成された義勇軍だ。隊旗は「一羽の烏」が染めぬかれ、隊士の装束も黒一色ということから、通称「からす組」と呼ばれていた。
福島とのかかわりだが、この「からす組」は、「白河口の攻防戦」で新政府軍に敗れて、残党が各地で強奪を行なった後、福島城下に乱入して放火するという騒ぎを起こしている。そのため、福島城下では、町民や村民達が自衛のため団結して、「からす組」と戦った。
  この戦闘で「からす組」の4人が討ち取られ、その他の者は福島城下から逃亡したらしい。
  この寺の碑は、このときの乱暴狼藉を働いた4人の戦死者の霊を弔ったものらしい。半沢氏はそのことに触れたメモを残していない。

  この寺は、自由民権運動のかかわりも深い。
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  明治15年3月31日、この長楽寺において「長楽寺政談演説会」と呼ばれる演説会が開催され、この本堂に300人の聴衆が集まったことが記録に残っているという。その後も長楽寺は、「政談演説会」の会場として度々使用された。また、近くに「尾上座」と呼ばれる劇場があったが、この劇場も演説会の会場として頻繁に使われていた。劇場は経営者が、客自軒の経営者である井上康五郎であることは、河野広中の影響を想像させる。
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  瓜生岩子像も、門の入り口に建っている。半沢氏のメモには、「社会福祉の先駆者 戦乱の戦災孤児救済につくす。 明治34年69歳没。 本寺で本葬」とある。
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by shingen1948 | 2007-08-08 04:01 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)