福島の建築 21
2010年 02月 16日
信夫山公園については、いろいろ案内を見るが、福島監獄署についての案内は見られない。
福島監獄署は、明治5年の監獄則及び図式の太政官布告の交布を受けて、明治17年5月に南裏通りから信夫山際に新築移転しているらい。(「森合郷土史」では、明治18年)
この建物は、博覧会資料に紹介されているところをみると、文明開化を象徴する自慢の西洋式建物だったということらしい。
それで、県庁と自慢の公園、監獄署を結ぶ新道が設置されたと思われる。
「森合郷土史」では、この監獄署へ向かう線を「監獄署通り」とし、監獄へ水道を送るために新たに開発された道を「監獄新道」と紹介する。
この近代的な水道施設を設置するために、水源確保と管理が行われたことが、地域の水道施設の基礎が築かれたという事にもなるらしい。
監獄署というのは、今の感覚では負のイメージが強いが、地域の近代化に貢献する誇り高きものというイメージもあったように思える。
この景色と「博覧会資料」にある写真や配置図を見比べると、この自慢すべき当時の監獄署がイメージできる。
監獄署の建物は、「明治の洋風建設~福島県西洋造の記録と研究(草野和夫著)」に写真が掲載されている。
この辺りは、工業所・教講所辺りだろうかと勝手に想像する。
ここには、大小の建物が数多く配置されていたようだが、その中で目を引いたのは、既決監棟のようだ。その建物の中心に、八角形の三階建て監視塔が建つ。そこから監房棟が4棟、四方に放射状に配置される「西洋造り十字型真棟3階建」の建物だ。これが、北奥の高台に建つ。
その西側手前に二階建て十字型の未決監棟の建物が配されている。これは、税務署辺りだろうかと勝手に想像する。
その東側に、平屋建ての西洋造の女監、既決監の両棟が、配される。これらが、目立つ建物だ。
その手前には、7棟の工業場や教講堂、人民控所平面所をはじめとする尋常造り(和風)が配置される。
懸命にここのイメージを消し去ろうとするのは、監獄署、刑務所という負のイメージだけではなく、歴史的には三島通庸が民衆を威圧する権威の象徴として建てたという側面があるのだろうと想像する。
ただ、西洋化を象徴する建物としては、東北では仙台の監獄署に次いで立派なものだったと聞く。
ここから、刑務所が移転するのは、昭和30年(1960)。この刑務所も、平成17年(2005)には、収容定員1000名の新刑務所が完成し、同時に隣接地区に東北地区で初めての女子刑務所「福島刑務支所」も開設するという進化を遂げている。