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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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民衆思想家菅野八郎氏について

 地区の方や歴史に詳しい方にとっては、次のようなこの方の紹介で十分なのかもしれない。

 梁川代官所管内の金原田村を拠点に活動した民衆思想家。
 岩代国伊達郡金原田村(現在の福島県伊達市保原町金原田)の農家の長男に生まれ、若くして高子村の儒学者熊坂台州に学び、名主代をつとめるなど優れた人物であった。

 しかし、他所から来た歴史に疎い者にとっては、これでは興味がわかない。
 興味を持ったのは、昔、日本史で学んだ気がする「安政の大獄」と関わるらしいことと、あの吉田松陰と同じ牢につながれた方で、松陰の記述の中にも紹介されているということでだ。
 自分が知っていること、あるいは身近な事とつながっているということでの興味だ。
 そこに、県歴史資料館で開かれた収蔵展に、この八郎が描いたペリー提督の似顔絵を含む著書「あめの夜の夢咄し」が展示されていたことを思い出したということが加わる。
 展示会を見たときには、伊達市保原町の農民が、わざわざ黒船を見に行ったということだけだったが、そのことともつながった。

 菅野八郎は、嘉永6(1853)年ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖にあらわれ開国をせまったという事態に大きな衝撃を受け、翌嘉永7(1854)年に神奈川に赴いて再び来航したアメリカ艦隊やペリーの姿を実見して、深く憂慮する。
 欧米列強の侵略に危機感を抱いた八郎は、海防の必要性を確信する。展示会で見た「あめの夜の夢咄し」は、その時に著したものだ。それだけでなく、八郎は江戸に上ると老中阿部正弘に駕籠訴して、海防の必要性を訴えたというのだ。
 そして、先に「太宰清右衛門」について整理したように、1858年11月 安政の大獄の際に捕縛され、八丈島に遠島となるという経緯になるようだ。

 こういった情報を得て、ようやくこの方の仕事が実感できる。
 日本の昔の芸能は、ある程度の知識がないとその良さに浸れないところがあるが、それに似ている。
 
 八郎は罪に問われて八丈島に流された4年間の流罪生活の中でも、「蚕飼八老伝」を著して八丈島に養蚕技術を伝えていたともいう。
 また、赦免され故郷に戻った八郎は、生糸・蚕種の新取引税に反対するとともに、暴政に苦しむ農民を救うために、自営組織「誠信講」を結成し、剣術の稽古を始めたという。
 常に、探求心を持って行動し続けていたらしい。
 この事が、信達農民一揆を八郎が背後で糸を引いているという噂につながり、その中心人物として逮捕される。
 この慶応2年(1866)、10万人を動員した「信達世直し一揆」は、江戸時代の農民一揆の中でも最大級の規模らしい。多くの豪商の家が打ちこわされ、一揆の情報は江戸や上方まで伝えられ、「読み売り」(瓦版)には「金原田村八郎世直し大明神」と書かれ、大評判になったという。

 八郎は、梁川代官所に無実の訴状を出して出頭するが、代官所牢獄にそのまま収監されたということのようだ。
 このことをどうとらえるかだが、八郎は直接扇動はしなかったのだろうと勝手に想像する。
 恐らく、八郎の生きざまや結成した自営組織「誠信講」の精神が、農民一人ひとりに影響し、結実したのだろうと思う。
 その後、戊辰戦争のかかわりで、八郎は長州藩によって解放されるようだ。没したのは明治11(1888)年とのことだ。

 氏にかかわる遺跡は、生家の前山に「留此而祈直」と自ら彫った岩があるという。また、西の丘には「大宝軒椿山八老居士」と刻まれた彼の墓があると聞く。これが散歩と関わる興味だ。次の機会に確認したい。
by shingen1948 | 2009-12-05 06:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)