幕末の攘夷運動家太宰清右衛門天達の墓(仙林寺)
2009年 12月 04日
太宰清右衛門天達氏は、幕末の非常な勤皇家であり、攘夷運動家らしい。経歴を確認すると、次のようだ。
氏は、生糸を商う保原の淀屋の長男であったが、妻が若くして死んだのを機会に店を弟に譲り、江戸の日本橋に開いていた支店の店長になった。
当時、真綿・絹糸は大変なもうけがあり、清右衛門は、出入りしていた水戸藩に献金して武士になった。
商人から武士になった清右衛門は、元来の水戸藩士以上に、尊攘派の武士として活躍した。天皇の勅諚降下にも一役かった。安政の大獄の時にはうまく逃げたが、最後は天狗党に参加して追い詰められ、自刃する。
この情報に、この辺りでは有名な金原田村を拠点に活動した民衆思想家菅野八郎氏とのかかわりを確認することで、この方の仕事が見える。
この菅野八郎氏の後妻ヤノの妹の夫であるという関わりで、1855年1月28日に、「攘夷を標榜した水戸家への召し抱えを祝って「秘書後之鑑」が書き送られてくる。
1858年11月 安政の大獄の際、太宰清右衛門は、捕縛されかけるが、この時「秘書後之鑑」が幕府方に発覚する。そのことによって、八郎は捕縛され八丈島に遠島となるという経緯になるようだ。
1864年8月には八郎は赦免されるが、太宰清右衛門は天狗党の筑波山挙兵に加わって、出島で自害する。
水戸藩と「秘書後之鑑」という文書がこの太宰清右衛門天達結という方を通して結び付くことが発覚することで、攘夷派への大弾圧に発展し、安政の大獄のきっかけになったということらしい。
「秘書後之鑑」は、腐敗した代官政治への批判、海防の必要性、前水戸藩主徳川斉昭を名君とするなど、幕政を批判したものらしい。
5月だったか、県歴史資料館で開かれている収蔵展に出かけたときに、この八郎が描いたペリー提督の似顔絵を含む著書「あめの夜の夢咄(ばな)し」が、展示されていたの思い出した。
伊達市保原町から、わざわざ横浜まで黒船を見に行った農民がいたということと、その農民の「安政の大獄」にも名を連ねる活動とのイメージがつながった。
この片田舎で、幕末、世界の列強からの開国圧力に国防の思いをたぎらせ活動した人物達ということのようだ。