地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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渡辺新左衛門墓所(仙林寺)


 保原の町について、どのあたりを歩くか目星をつけるのに、公民館の案内板を見た。
 紹介されているのは、観音堂しかない。長谷寺にあった説明板の中に大火について触れているのがあった。そのせいだろうかと勝手に思う。
 本当は、町の史跡の案内がどこかにあるのかもしれないが、とりあえず町の北端の仙林寺に立ち寄ってみる。
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 この角の入り口を入ると、白亜の楼門が目に入る。丁度ご住職が鐘を撞かれているところだった。


 直ぐに目についたのは、その楼門前の渡辺新左衛門の墓所の標柱だ。
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 この方が東根堰の原点である砂子田堰を開削された方だということは、知っていた。
 案内の標柱には、「上杉藩の家臣で慶長3年(1598)より○年にわたり梁川の堀江与五右衛門と共に砂子堰を開発し更に保原地方の田畑の開発や市場の開設に力を尽くした。」とあった。

 子供向けの「社会科資料」では、慶長9年(1604)に延長15㎞にのぼる水路を完成させたとする。
 県資料情報では、梁川町史をもとに、慶長5年(1600)、信達四郡役として東根郷を差配していた堀江与五右衛門・渡部新左衛門が関波村南部に堰口を設け、大門・細谷(梁川町)から金原田・上保原(保原町)に至る水路を開削したと伝えるとしている。
 今、資料を見失っているが、慶長3年(1598年)頃から水田の開発を検討が始まり、完成して約束事まで含めた管理体制が整うのが慶長9年(1604)あたりのようだ。
 県資料の年号は許可を得て工事を開始するあたり、寺の年号は一部開削が完了し、通水が始まったあたり、社会科資料が、この堰が完成したあたりの年号を指している。
 灌漑が、思うようにいかない背景を反映しているように思える。

 この方、「天地人の時」との関わりでいえば、梁川の堀江与五右衛と共に、下保原の大肝煎であった方だ。
 ここ伊達郡東根上郷は、慶長6年(1601)に成立した米沢藩の県北の伊達・信夫両郡は寛文4年(1664)まで米沢藩領だ。
 その米沢藩は、村々を束ねる大肝煎(信達4郡役)に依拠しての統治していた。その大肝煎は鈴木源左衛門(信夫郡、福島)・佐藤新右衛門(伊達郡西根郷、桑折)・渡部新左衛門(同郡東根上郷、下保原)・堀江与五右衛門(同郡東根下郷、梁川)・高橋清左衛門(同郡小手郷、秋山)の5人だ。
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 仙林寺のホームページで確認すると、この方の墓は寺の中の墓地にあるようだ。
 なお、この寺の創始について「今から697年前鎌倉時代の後半、徳治元年(1306)保原城主伊達次郎為重公の開創、当時は真言宗に属し寺号を「眞林寺」といった。」とあった。
 保原城の創始について、「保原村明細帳」では、保原城は鎌倉初期に伊達氏と伝えているということだった。
 そこが、この寺の創始の情報では、伊達次郎為重公ということになろうか。
 ただ、保原城の戦国期の在城者についてはいろいろな情報があるようだが、その創始については、まだ曖昧だと聞く。
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by shingen1948 | 2009-12-03 05:46 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)