渡利地区の東根堰
2009年 10月 15日
東根堰は、大平山をトンネルでくぐって渡利地区の西側に顔を出すのだが、この堰が見えるのはごく一部だ。
直ぐに、70mの等高線ラインに沿って走る道の下に潜り込む。
この道、当然のことながら、高低差が少ないので、ママチャリで動く時には、無意識のうちに何度も通っていたのに気がつかなかった。町頭遺跡の前を走っていた道でもある。
信夫・伊達の地域では、阿武隈川を挟んで東側を東根郷といい、西側を西根郷ということだが、西根郷の灌漑用水は西根堰として地域では有名だが、東根郷の東根堰はそれほど脚光を浴びないようだ。
その一つの理由は、失敗の歴史が積み重ねられていて、成功の積み重ねという華やかさが見られないことがあるのでたろう。
東根郷の堰の開発のスタートとして知られているのは、砂子堰だ。伊達郡の保原方面の開削のため、領地を支配していた上杉藩の命令によって広瀬川より分流された。これが最初のようだ。これは不完全な灌漑で、幾度となく改修が繰り返されるという経緯をたどっているようだ。
先に散策して整理した明治末から大正時代にかけての阿武隈川箱崎からの電力揚水は、その中でも、その時代の最大の技術を結集した改修であったが、それでさえも経費がかかり、故障も多く、これで完成という訳にはいかなかったようだ。
ようやくめどがたつのが、昭和15年(1940)信夫発電所の現地点より取水し通水開始された東根堰のようだ。
この開削によって、ようやく灌漑が完成されてくるのだが、ここに個人的な手柄話はなく、地味な公共の組織的な工事で、それほどのドラマもない。これも、東根堰がそれほど脚光を浴びない理由だろうか。
それでも、この東根堰は、経緯も実際の施設のカバーする範囲もスケールが大き過ぎて一度にとらえることはできない。これもまた、捉えどころがなく関心を呼ばない理由になっているのだろう。
ただ、その人々にアピールすることなく、地道に忠実に仕事をしたことが、本来の目的をほぼ完結的に終えているというその目立たない存在がいいと思っている。
先に整理した阿武隈川箱崎からの電力揚水に続いて、渡利地区のあたりを散策した中で見えてきたことを、東根堰の一部として整理しておく。
道の下を流れてきた東根堰は、ここで顔を出すのだが、川をまたぐと直ぐにまた公民館裏の山に潜り込む。
そのまたぐ川が、先に散策した二つ池を経由していた川だ。元は、サイホンの形式で川を越したようだが、現在は樋越しの形でまたぐ。
地下の中の様子は分からないが、最近開通したバイパスが阿武隈川を渡る橋の近くの大きな排水設備は、この東根堰の排水路のようだ。
大雑把に見ると、この排水路に沿ってこのバイパスができたということのようだ。
視覚的に見えないとなかなか実感できない。
実感できるのは、このバイパスから排水路が伸びて、それが阿武隈川に続いているこの景色だ。