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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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弁天山⑤~椿舘を中心に②「森鴎外と福島」

 「ふくしま散歩(小林金次郎著)」では、森鴎外と福島のかかわりについて次のように紹介している。

 鴎外は大正の初めに福島を訪れ、杉妻町の松葉館(現在の大仏荘)に泊まった。翌日には、宿の主人と椿館に登り、椿館の物語に耳を傾け、やがて小倉寺の五輪石も訪れた。
 小説「山椒太夫」が中央公論に発表されたのは、大正4年1月とのことで、福島にも学んだことのある森林太郎は、懐かしみを持ってこの地に取材の足を進めたことだろうと結ぶ。

 「ふくしまの歴史」では、大正初年に森鴎外が福島を訪れたのは、取材旅行ではなく出張だったとする。
 福島に来たのは、大正3年5月18日夕方で、飯坂温泉に一泊して翌朝の列車で帰京している。8か月後に「山椒大夫」を発表したので、椿舘を訪れたという説が流れたが、事実ではない。主目的は、飯坂の仙台衛戍病院分室の視察であった。

 鴎外は、軍医だったはず。こちらの話も成程と合点がいくし、これはこれで面白いとも思う。
 先に、飯坂温泉を飯坂のラジウムにかかわって整理したのだが、この「仙台衡戌分院温泉」もこのラジウムの効能とのかかわりで設置されているはずだ。
 森鴎外も飯坂のラジウムとかかわる著名人として付け加えたい。
弁天山⑤~椿舘を中心に②「森鴎外と福島」_a0087378_4534131.jpg 
 真鍋嘉一郎のラジウムの発見は、明治37年(1904)卒業の頃だ。福島県飯坂温泉、兵庫県城崎温泉の放射能を測定し、飯坂温泉で、日本ではじめてラジウムが確認されて、飯坂の名は世界的に知られることとなったということだった。
 「飯坂タグ」を貼り付けた項目のうち、「真鍋嘉一郎と……」とある項目に、そのラジウムを通して、著名な方とのかかわりを整理している。
 今までは、真鍋嘉一郎と夏目漱石と野口英世だったが、ここに森鴎外が加わることになる。

 先にも整理したとおり、「仙台衡戌分院温泉」は、「飯坂湯野温泉史」の古地図と見比べてみると、現在の県立リハビリ温泉病院である「飯坂温泉病院」のところにあったはず。
 森鴎外は、この時ここに一泊したことになるのか。


 さて、出張に来る時には、取材に立ち寄るゆとりがなかったというのは納得したが、帰るときにもそのゆとりはなかったのだろうかと、未練がましく思う。本当にわき目も振らずに、品行方正に真っ直ぐ帰京したのだろうか。
弁天山⑤~椿舘を中心に②「森鴎外と福島」_a0087378_4463950.jpg
 大正4年1月「山椒太夫」の出版から逆算してみる。
 出版社が作品を受け取って出版まで1~2カ月かかるとすれば、鴎外が作品を手放したのは、大正3年末のはず。
 大正3年5月18日来福は、その半年前である。作品の構想が浮かび始めたころというのは、それ程無理な想定ではないと思うのだが、……。
 それでも、ここで取材をすることもなく、思いをはせることもなく帰京したというのは本当なのだろうかと思うのは、勝手な思い込みなのだろうか。
 上の椿舘(弁天山)の写真は、信夫橋から眺めたものだが、東北線の鉄橋は、この信夫橋の僅か上流にかかる。立ち寄らなかったのなら、せめて車中から想いを馳せたと思いたい。
by shingen1948 | 2009-10-07 05:22 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)