産ケ沢の信達大一揆刑場
2009年 08月 08日
産ケ沢橋を過ぎて左手の高台に、「信達大一揆」三義民の顕彰碑」が見えた。
伊達町の「信達大一揆」について散歩したことを整理する。
散歩のきっかけは、義民齋藤彦内の墓のある福源寺を訪ねたことだ。このことについては、「信達大一揆義民齋藤彦内の墓へ」で整理している。
それから、大正7年(1918)、天狗廻状映画化により、長岡村中心の有志の人々が献立したという寛延三義民の顕彰碑の供養碑のある観音堂を訪ねて、「信達大一揆② 義民を訪ねる」で整理する。
福源寺を訪ねた時に、齋藤彦内の墓の確認が弱かったので、もう一度訪ねて、「信達大一揆④ 義民を訪ねる②」として整理した。
世直し一揆の合図に使われたという愛宕山の大鐘を求めて、向瀬上と箱崎の二つの愛宕神社も訪ねた。
その三義民のうちの一人猪狩源七氏の墓には、鎌田城の散策の折に鎌秀院で出会っている。そのことについて、「寛延農民一揆~寛延三義民猪俣源七」として整理した。
それ以前に、福島の宮代地区を巡ったときには、寛延2年(1749)の信達大一揆で結集した日枝神社に立ち寄っている。この一揆とのかかわりについては、「農民一揆発祥の地で、その決意の拠り所を想う」として整理した。
この信達大一揆で、長倉村の百姓総代齋藤彦内、伊達崎村の蓬田半左衛門、鎌田村の猪狩源七の発起人であるこの三人は、その責を負って騒動終了後にこの産ケ沢の刑場で斬首、さらし首に処せられたという。
その三義民の顕彰碑がこれだ。
裏に回って碑を見ると、福島市・伊達市・桑折町の共同の建立であることが分かる。
このことと全くかかわりはないが、この碑の前に、一等水準点があった。