修験極楽院三島屋敷②
2009年 08月 05日
「中畑遺跡」は、1994年に伊達町教育委員会が調査し、遺物として、土師器・赤焼き土器・火鉢・石器が発掘され、奈良平安竪穴住居が2軒・溝跡6・土抗6が発掘されて、平安中世の時代の遺跡として特定していることを示している。
このあたりを地図で確かめると、交番近くに三島神社がある。伊達駅前の案内地図では、その北側に極楽院旧跡のマークがされている。それが、どういう遺跡なのかは分からなかったので、とりあえず交番と三島神社をめざして出かけてみることにしたのだ。
とりあえず交番に着く。
これは、交番から広く遺跡がマークされている方向の北側を見ている所だが、気になるのは高低差で、やや高台になっている。
ここから次の目印である三島神社をめざす。北側に進んだ所にあるはず。しかし、ここから坂道を下って、次の通りにでた所から登り道になるのだが、そちらの方向は、「ここは通り抜けできません」との表示があるのだ。先日はここで諦めた。考えてみたら、単に通り抜けられないだけで、進むことを禁止しているわけではない。そのまま進んでみた。
すると、その坂道の直ぐ左手にその三島神社はあった。
そこに、案内板が建っていた。そこに説明されているのを見て、これらが複合的に関連し合っていることを知り納得する。
「中畑遺跡」として、伊達市で調査して、平安遺物や遺構を検出しているらしいが、その調査は、ここらあたりを住宅地に開発するための調査だったようだ。新築の住宅が立ち並ぶ。
この写真は、奥州街道から、修験極楽院を中心とした伊達家極楽院旧跡、その屋敷神である三島神社のある方向を眺めている。
修験極楽院の旧堂宇は、昨日整理した所だが、その東南の桑畑の中に、法印権大僧都継光など歴代院主の石塔があったという。
位置的には、このあたりの広場だろうか。現在、金秀寺の境内に移されて、保存がなされているとのことだ。この寺は、ここから道路を挟んで南側にあり、先に七角石塔を訪ねたが、その手前にあった石塔だろう。
宗教として「修験極楽院」の置かれた立場も含めて整理したが、「三島神社」も元々の考え方に、明治維新の政治をつかさどる方々の頑張りで変更が加えられているので、その混乱を考慮しないと、こちらも混乱する。
特に近くの東湯野地区では、その影響を強く受けている神社があるらしい。その波及による混乱を、今のところまだよく整理できないでいる。
修験極楽院三島屋敷 極楽院は本山派と称する、天台宗の寺門派(園城寺)聖護院を本山とする修験で、信夫の北部から伊達郡の西根にかけての村々を霞とし、正年行事職(小先達)として藤田村の常楽院など、32ケ院を配下に置いた古刹であつた。
修験とは、我が国固有の山岳信仰と平安期の密教の呪術とが習合して生まれた宗派で、修行者は山伏と呼ばれた。極楽院の創建の時期は明らかでないが、中近世を通じての有力な修験の道場で、文亀3年(1503)紀州の熊野詣に、先達として信達の信者を率いて参詣に赴いたことが知られる。天文3年(1534)に極楽院善栄は、桑折西山城主稙宗の子息である清三郎宗栄を養子に迎え、極楽院の権勢を確固たるものにし、善栄は三島屋敷に隠居した。延宝年間(1673~80)仙台藩主の伊達綱村は、宗栄4世の孫極楽院直光を一族として還俗せしめて家臣に取り立て、姓を岡村として召出の班に挙げられており、極楽院は弟の良雄をして継がしめた。以降その末裔が代々院主を継承したが、明治5年(1872)の神仏分離令により修験道は廃止となり、翌6年極楽院は廃院となった。極楽院の旧堂宇は、現在桑原家の住家となっており、内部の構造は若干改変されているが、護摩壇の置かれた部屋や、熊坂適山が杉戸に描いた風竹の墨絵などに、往時を忍ぶことができ、屋敷神として信仰した三島神社も残されている。墓地は院跡東南の桑畑中にあつたが、法印権大僧都継光など歴代院主の石塔は、現在金秀寺の境内に移されて、保存がなされている。
伊達町教育委員会(三島神社脇の案内板より)
なお、伊達氏とのつながりと三島屋敷・三島神社とのかかわりについて、「一統志」では、「伊達極楽院 修験者 街道の東に在り 年行事小先達なり 境内に三島祠を祭れり 霊験なるよし これが先祖は 伊達氏今の仙台候と祖を同じうす 伊達系譜ニ云極楽院始清三郎と称す 稙宗君の十二男也 天分十三年甲辰十二月十三日修験極楽院善栄法印養為嗣稙宗君授 伊達郡成田平沢岡村三邨ヲ云」とあるという。