地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

飯坂東線③~伊達橋騒動

 伊達橋と隣の大正橋は、大正3年(1914)年の架橋工事の地元負担金等をめぐって起きた伊達橋事件にかかわる橋との話は聞いていた。
 しかし、騒動といったマイナスのイメージが伴うものは、なかなか情報が拾えない。具体的な騒動の様子がなかなか見えなかった。それが、別のことを確かめるのに開いた「ふくしま一世紀」の中に、偶然その騒動の概要の情報を見つけた。

 その情報によると、この騒動は軽便鉄道の誘致が絡んでいるらしい。
 その発端は、大正2年8月27日に猛烈な雨台風が襲ったことらしい。この台風は、本県での被害が、死者62人家屋全壊544戸、橋の流失947か所という記録的な大被害をもたらしたのだが、この時に、長岡―保原を結ぶ軽便鉄道の伊達橋も流されてしまったという。

 問題は、この伊達橋を掛け替える位置から起こったという。
 「長岡―保原の方々」は、勿論現在位置がいいと主張したのに対して、「桑折の方々」がここより2㎞下流に架ける運動を始めたという。
 その背景には、同誌によると、桑折が伊達の郡役所所在地であり、中心的な存在だったことや、保原が軽便鉄道が通じた影響で発展をみせ、桑折を追い抜きそうな勢いだったことがあるらしい。散歩の中で得たことを思い出すと、郡役所の位置についても、その候補は保原と桑折だったらしい。それが、桑折の積極的な誘致活動が功を奏した結果という話も聞いていた。
 桑折の方々は、自分の町の近くに伊達橋を架け直してもらい、軽便鉄道の便利を利用して町を発展させようと考えたという。
 これを知った長岡と保原側は防御作戦に乗り出し、桑折側と深い溝ができ、遂に大正3年(1914)に伊達橋事件という騒動に発展してしまったらしい。
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 これは大正橋だが、「ふくしま一世紀」によると、その騒動の結果として保原―長岡の軽便鉄道はそのまま伊達橋を通過し、新たに大正橋を設置して、保原―桑折間の軽便鉄道が開通したということだ。

 別の言い方もみたことがある。
 この騒動で、桑折の方々が主張する伊達郡役所と保原を結ぶ有利なルートが認められて、この大正橋を架けることになったとも聞く。


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 そのため、長岡村は村営で伊達橋を架設することになったという。伊達橋は、自動車、歩行者、家畜の併用橋としての橋梁を架設することになるのだが、資金難を乗り切るため、トラスの部分は英国からの払い下げ品が使われているとも聞く。
 桁は明治中期のイギリス製ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって単線軌道併用の道路橋に改造転用し、路面は板張りだったという。
 その橋が、飯坂東線廃線に伴い、昭和54年(1979)軌道が撤去され、路面をコンクリートにして、歩道橋に改築されたということのようだ。
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Commented at 2009-07-21 17:04 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2009-07-22 05:08
 ご指摘ありがとうございます。確かに廃止はそれより先です。
 歩道橋の改築完成が昭和54年(1979)ということで、「昭和54年(1979)軌道が撤去され歩道橋に整備されて再開通した」ということですが、誤解される表現だったようです。
 なお、廃止についてですが、伊達町が小学校3年生用に作成した副読本「わたしたちの伊達町」では、昭和46年(1971)としているようです。
http://www.fks.ed.jp/DB/kyoudo/05.date1/html/00064.html
 再確認していく中で、橋の構造に詳しい方のページに出合いました。それによると、廃線後1973年(昭和48年)に下路平行弦ワーレントラス1連の工事が新たに入っているようですね。
by shingen1948 | 2009-07-19 05:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)