宝積寺と長楽寺
2009年 07月 12日
まずは、その本荘家の墓。
本荘繁長氏は、伊達氏が豊臣秀吉氏によって岩手沢に移封されたあと、杉妻城に入封した。
この長楽寺が本庄繁長の鎧甲を保管しているとのことにかかわっては、先に「舟戸諏訪神社」として整理している。
この隣の寺である宝積寺については、先に「伊達晴宗の墓~宝積寺」として整理している。
宝積寺と長楽寺と並べてみたのは、中世に敵味方だった方の菩提寺が隣あっていることが気になっていたからだ。
宝積寺が伊達晴宗氏の菩提寺であり、その隣の長楽寺が上杉氏の城代本荘繁長氏の菩提寺ということだ。勿論、宗教の世界の中では、蟠りなどというものがあろうはずはないのだが、どうしても気になってしまう。
しかも、宝積寺には栽松院夫人の悲劇があり、隣の長楽寺は天地人の時代ブームの中にあるという状況だ。
しかし、「伊達晴宗公・栽松院様400年遠忌記念」として出版された「宝積寺誌」を目にして、これは自分の勝手な思い込みであることを納得する。
その一つが、興味の観点からみると、この二つの寺は、現時点ではどちらも上杉系であり、敵味方ということには関係なさそうだということだ。
そうなった経緯は次のようなこととのこと。
天正19年(1591)に、政宗が岩手沢に移封されて、杉目城が破棄さる。
慶長 3年(1598)に、本荘氏が入城して、菩提寺長楽寺を建立する。
※ この時も、宝積寺に能山和尚は、まだ住持していたらしい。
したがって、この時点では上杉系と伊達系の菩提寺が隣り合っていた状況になっているようだ。
しかし、この後10月に信夫山に陣取った伊達政宗が福島城を攻めて戦場となる。松川の戦いだ。この時に、能山和尚は、根白石に向かったらしい。
和尚は、対立する領主の治める福島には戻れなくなってしまう。栽松院夫人の遺命もあって、そのまま根白石にとどまったようだ。和尚は、晴宗公と栽松院夫人の菩提を弔うため、そこに新たに琥珀山実積寺を建立したという。その寺は、衰退して明治の初めには廃寺になってしまったようで、晴宗公と栽松院夫人の御位牌は根白石の満興寺に奉安されているとのことだ。
さて、能山和尚が帰山しなかった福島の実積寺だが、その後10数年間は無住だったらしい。しかし、慶長8年(1603)に繁長が没すると、この寺は破却されずに、そのまま直江兼続の菩提寺春日山林泉寺の末寺に加えられたというのだ。
この時点で福島の実積寺は、自分の勝手な興味の観点からみると、上杉系の寺であり、心配した敵味方は関係ではなくなるようだ。
なお、庭坂の清水寺もこの時期に創建されているという。
もう一つ、晴宗公と栽松院夫人がかかわった創建についてのイメージをどんなふうに持っているのかというこれも自分の勝手な興味の観点である。これについても客観的に誇りをもって受けとめることができるという状況のようだ。
漠然と代々続く住持をイメージしていたが、この寺はそうではないとのことだ。
謙遜ではあろうが、本書では、この寺は俗に「出世寺」とか「腰掛け寺」などといわれて、住職の在任期間が短かいという言い方をしている。
具体的に、元和元年(1615)開山から文政6年(1823)までに200余年間に14世、の住持がいて、26世までの100余年間に12名の住職と1名の尼僧が住持交替していると指摘している。
このことが、心情的には晴宗公と栽松院夫人がかかわった創建について客観的に誇りをもって受けとめ、そして受け継がれていくことができる要素になっているように感じたのだが……。
申し訳ありません。全て宝積寺です。修正していきます。