信夫橋5~名橋「メガネ橋」④
2009年 07月 06日
現在の信夫橋の北側には、漢字の「信夫橋」とある親柱ある。先に整理したときには、別のデジカメだったので、改めて撮影する。
後ろに、欄干等のための傷があり、明らかに外側の親柱であったことが分かる。
なお、幼稚園にあったひらがなの「志のふはし」の擬宝珠をかぶった姿は、ふれあい歴史館では白黒写真だったが、「ふくしま散歩」の新しい版にカラー写真が掲載されていた。
現在の信夫橋もアーチにこだわるのは、この名橋「メガネ橋」の影響だろう。
「信夫橋②」として整理した時に、この名橋「メガネ橋」の影響を確認しているが、それを再掲する。
半沢氏のメモをもとに、明治30年竣工の橋脚に現在の橋脚が残っているということで、河原に降りて確認している。
その時に、橋の南側に、現在の構造とは関係のない構造物が残っているのを見つけた。恐らく何代かの橋の構造物なのだろうと思う。
橋の南側に、名橋「メガネ橋」を中心に信夫橋と荒川運動公園を説明する案内板が建っている。
それによると、信夫橋といわれるのは、明治7年(1874)対岸までの木橋が架設されてからという。
その中で、2代目信夫橋は明治18年から24年(1884~1890)までに架けられていた石造りで「13眼鏡橋」の名で親しまれていたというとして、この名橋「メガネ橋」を説明して、写真を掲げている。
その後、木鉄混交橋等何度か架け替えられたようだが、その橋については「ふれあい歴史館のブログ」で確認できたのだが、そのブログは閉じられたようだ。土木学会図書館戦前絵葉書→橋→福島で見れるのは、木鉄混交橋だ。
信夫橋と荒川運動公園
この橋は、明治7年(1874)、浅瀬に渡した板橋(通称ガンダラ橋)に変わって、対岸までの木橋が架設されてから「信夫橋」と命名されました。
現在の信夫橋がかかる所は、かつて須川と称されましたが、昭和39年(1964)の河川法改正で、荒川と変更されました。須川の河原といわれたこの地は、福島藩の処刑場になったり、百姓一揆の集合場所ともなったりしました。信夫橋から上流側は現在荒川運動公園として整備されています。
下の写真は、明治18年から24年(1884~1890)まで架けられていた石造りの信夫橋で「13眼鏡橋」の名で親しまれていましたが、2年続きの洪水で崩壊してしまいました。その後、木鉄混交橋や永久橋と、何度か掛け替えられて現在に至っています。
福島市
眼鏡橋の石材が三代目に流用され、その橋脚の一つが現存していることは存じておりますが。
とりあえず、流用と考えてみていますが、どの橋脚というふうに示されてはいません。また、これが、2代目の流用かどうかは記載されていません。想像している段階です。
なお、鶴亀彫刻石の件ですが、これも半沢氏のこのメモをもとに探してたどりついたものです。
ただ、これも半沢氏は「石橋のアーチにはめ込まれた彫刻石」としていますし、「ふくしまの散歩」の小林氏は、「橋のたもとに祝いものとして置かれた鶴亀の碑」としています。
これも、現在は曖昧のまま推定しているに過ぎない段階です。
三代目の橋脚は現信夫橋の真下にひとつだけ現存しております。
水位が低かったのか、上に乗ることもできました。
小さいですがこちらで写真が見られます。
http://www.the-orj.org/ORJ_0904/