地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

東根堰の疎水閘(こう)

 向瀬上の愛宕山は、月の輪台から続く高台の突端でもある。
 真偽は不明だが、この阿武隈川の方に突き出た部分を箱石灘といっていて、その先にある地域ということで箱崎という地名になったといういわれの説明があるのを見た。
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 この箱石灘には、二つの碑があるが、そのうちの一小野氏顕彰碑について昨日整理した。こちらは、阿武隈川が蛇行の道筋を何度も変えることとかかわる川除の話だ。こちらは、月の輪の由来等や大坦の堤等の話と繋がる。


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 もう一つの石碑が疎水閘(こう)由来碑だ。こちらは東根堰とかかわる話だ。

 阿武隈川を挟んで、西側が西根郷といい、東側が東根郷という。西根郷の堰物語は、大事業に成功した西根堰物語だが、こちら東根堰は、試行錯誤の歴史を刻む。
 試しては失敗し、失敗しては新たな挑戦をするが、また失敗する。その時代の妥協線をどうにかみつけるが、新たな状況が生まれると再挑戦していくというたくましい歴史を刻む。
 この石碑は、ここがそんなたくましい歴史をスタートさせ、試行錯誤を繰り返した地点であることを象徴的に知らせている。
 石碑として使われているものは、大正3年に自然取水を諦め、電力ポンプで阿武隈川から揚水したときの閘(こう)門に掲げられていたものを取り外し、そのまま記念碑としたものらしい。
 この装置は、昭和19年に現在の東根堰が完成するまで使用されていたものらしい。

 現在の東根堰は、昭和10年に福島市渡利中山地内信夫発電所ができて、そこから阿武隈川の水を取水し、延々と保原梁川まで延びて東根郷を潤している。

※ 閘(こう)門=ここでは、ポンプで取水するために、水面の高さや水量を調節していたと思われる。
案内板に、詳しく説明されている。
 疎水閘」由来記
 信達東根郷の地は、古来水利の便に乏しく僅かに溜池の構築等により辛うじて、灌漑の用に充てているに過ぎなかった。この頃、上杉家の家臣で保原の渡辺新左衛門と梁川の堀江与五右衛門という人が、共にこの状態を嘆き力を合わせて慶長元年阿武隈川より取水してこの広い東根郷の平野に灌漑しようとし、現在の伊達町箱崎箱石に取り水口を設け設け、堰堤を築き河水を引水れようとしたが失敗に帰した。次いで慶長3年上杉領となった時信達惣奉行の平林蔵人佐正恒は両人に対し箱崎揚水事業の継続を命じ工事を再開したがこれまた失敗し工事を放棄するに至った。
 箱崎堰で失敗した両名は、三度奮起し、平林惣奉行に願い出て、今度は反対方向の広瀬川より取水する計画を樹て慶長3年泉原より上保原、高橋に至る延長16㎞余の立派な水路を凡有艱難辛苦を乗り越えて同9年に完成した。これが後の世まで伝わる「伊達の逆さ水」と言われた水路である。
 この水路のお陰で、原野は次第に開拓され多くの収穫を見るに至った。しかし乍ら、東根郷全体の水田を干害から守るにはまだまだ広瀬川の水量では間に合わず、その後文化4年10月更に明治8年4月と幾度か阿武隈川よりの堰上げ工事が行われたがすべて成功するに至らなかった。
 明治41年には、保原町外1町5ケ村砂田堰普通水利組合と名称が定められ翌42年阿武隈川より自然取入れはいよいよ不可能と諦め、電力ポンプによって揚水する事業を計画、現在の地点(当時伏黒村箱崎箱石)を起点として着工、大正3年2月に電力ポンプ揚水による阿武隈川疎水工事が竣工し、その後30年間砂子堰の足らざるところを補って、大きな効果を挙げたのである。これに使われたポンプは独乙のシーメンス会社より輸入されたもので箱崎第一揚水場に95馬力2台、大柳第二揚水場に45馬力2台が設備された。それでも尚夏の電力低下、或いは停電その他の障害不便を免れず依然として灌漑用水の不足を満たすことは出来なかった。かくして昭和10年5月福島市渡利中山地内信夫発電所より阿武隈川の水を自然流入の方法で取水できる阿武隈川農業利水事業が多年に亘る農民の悲願と関係指導者の熱意と尽力により県営事業として採択され、翌11年5月に着工、昭和19年5月めでたく竣工し東根郷の水不足は一挙に解決を見たのである。
 当事業の完成によって30年間に亘って活躍した電力ポンプ揚水事業は閉鎖を見るに至ったのである。本「疎水閘」の碑は当時の面影を偲ぶよすがである。
 ここに本事業に尽くされた幾多先人各位の遺蹟を讃え、本事業の概要を記し後世に伝える次第である。

 昭和63年3月建之
 東根堰土地改良区
 理事長徳之介

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by shingen1948 | 2009-06-12 05:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)