芭蕉の足跡をたどりながら「ラジオ福島桜祭り」へ②
2009年 04月 21日
この地点の追分にこだわってみたのは、半沢氏にそのこだわりを感じたからだ。
氏は以下の事実のみをメモするが、そこにこだわりを感じた。
現在、文知摺観音の駐車場に移されてある文知摺道標はかつてこの分岐点にあった。幕末の五十辺村絵図にもこの地にあった道標は描かれている。
この道標は、明治12年~18年にかけて建設された旧中村街道の文知摺へ行く道との分岐点に大正2年に移転された。それが、現在地に移されている。
このこだわりは、奥の細道の芭蕉の足跡だ。
彼は、ここから芭蕉は文知摺観音に向かったと考えていたと思うのだ。
その道筋を追ってみる。この機会だけでは感覚的に納得できなかった。五十辺館の散策の機会も含めると、5、6回確かめているが、「ラジオ福島桜祭り」へ向かった機会として整理しておく。
ここから、東に向かう道は、現在交通安全地蔵が建つ左脇の道筋が近いようだ。
ここから、現在は道筋が消えているが、この左側の田は、何度か来てみて、河床跡だろうと推測した所でもある。道筋は消えても、河岸と思えばここを進む道はあったような気がする。
ここから一つ南側の道を回り込んで、この先の道筋に出て、そこから先を想像する。
この道筋の右側のやや一段高い所を道筋に考えてみる。
そこに、空の水槽が現れる。
この辺りは、旧松川河床である。散歩していて感じるのは、こういった施設は歴史的な背景を見のがさない。多分、これは阿武隈川の水が増水した時に逆流を緩衝するためのプールであろうと思う。見事だと感心することが多い。
ここからまた道筋は途切れるが、なんとなくラジオ福島局の後ろのこの道筋が近いのではないかと想像する。
ここから河岸にあがって対岸をみる。
実は、推定には対岸の雷神社の位置も頭に置いている。ここからやや左手にある。そこへ向かう道筋に岡部の渡しを想像する。