宇都宮城⑤
2009年 04月 16日
城を中心に散策すると、ここも城下町としての町として栄えたと思えてしまうが、ここは二荒山神社の門前町として発展してきたということが中心らしい。
宇都宮二荒山神社にも立ち寄てみることにした。
この神社は、宇都宮という地名とかかわるという諸説あるようだが、一の宮というのが分かりやすいように思う。少なくとも○○宮ということで、この寺とのかかわりの深さは頷ける。
この社、古くは宇都宮大明神と呼ばれ、正式名称は二荒山神社とのことだが、日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名をつけて、宇都宮二荒山神社と呼ばれるらしい。
しかし、ウィキペディアでは、両社とも古代関東地方の文化の中心地であった下野国の豪族であり国造である下毛野氏にゆかりの深い神社との共通点を説明していた。
この神社と日光の二荒神社と祭神が異なり名称の由来も異なるため、別の神社といわれるが、日光社は下毛野氏の氏寺であり東大寺(大和国)や観世音寺(筑紫国)と並ぶ戒壇であった下野薬師寺の修行僧であった勝道上人を開祖とする。宇都宮社も宇都宮氏が座主となるまで、座主は下毛野氏の姻戚者であったといわれているとのこと。
下毛野氏は当時の毛野川(鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。庶流に常陸国守護小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した紀清両党とも姻戚関係にあった。
神社の案内板では、次のように説明する。
式内名神大社
下野国一之宮
宇都宮二荒山神社御由緒
御祭神 豊城入彦命
相 殿 大物主命(大国さま)事代主命(恵比寿さま)
主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王が第十六代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命、事代主命を祀られました。その後承和五年(八三八)に現在の臼ヶ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。古くは、延喜式内社、名神大、当国一之宮明治になって国幣中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町もお宮を中心に発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いて頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。
この神楽殿で演じられる神楽は、昭和44年2月12日に宇都宮市指定無形文化財に指定されているとのことで、案内板では、次のように説明される。
神楽は神聖な場所に神々を迎え、その前で踊る舞踊であり清めや豊作祈願などの意味が込められている。
二荒神社の神楽の起源は江戸時代の中頃と伝えられており、神社では宮比流太々神楽と称している。
舞は、1月28日、5月28日、9月28日の3回奉納され、岩戸の舞など18演目あり、舞面は、40面あり、「明治4年(1871)高田運春」の銘などがある。
宇都宮教育委員会
平成4年3月建
明神の井は、神社社務所の案内板によると、7水8河原の一つとして由緒深いということで、最近復興したようだ。案内板では、次のように説明する。
明神の井
宇都宮は、地形の関係で湧水が多く、江戸時代の人々は、主な湧水を7つ選んで「7水」これとあわせて「7木」「8河原」などを選んで名所としました。
この「明神の井」は7水の一つで、明治天皇がおいでになったときさしあげた、茶湯に使われました。(明治42年11月那須野ケ原大演習の折)また、この水を使うと書道が上達するという言い伝えが残っています。
今でも、清らかな水が汲み上げられています。