本宮電気発電と空爆
2009年 03月 27日
この営林署跡も、市民農園のようなものにすることを考えているらしい。
岳街道を少し下った辺りには製材所らしい所があるが、ここには今も切り出した木材が積まれている。
この上の方にある村民の杜も、元々は森林から切り出した木材の集積場だったと聞く。
先に書いた交差点を右手に登る道は、川からは離れているが、まっすぐに登り道になる。
その道を進んで、右に曲がるあたりに細道がある。この細道(写真の右手の丘のようになっている所)を下って、川との交点辺りが、横堀平発電所あたりだと勝手に想像する。
この発電所にこだわってみたのは、本宮のグンゼ工場が太平洋戦争時に空爆を受けるのだが、何故という思いがあり、そのイメージがつかめなかったからだ。
交通の便が良くて工業が発達し、軍事工場が建つというのは理解できる。
しかし、グンゼは繊維工場のはずだ。ここが、空爆を受けるのは合点がいかないところがあった。
最近、ここで飛行機の部品を造っていたと聞いた。
軍事部品工場になっていたというは、空爆の理由としては理解できる。
すると、ここに繊維工場が発展し、戦時には軍事部品工場にされたという変遷を知ることが、納得しやすい。
福島県での発電は、明治28年(1895)福島電灯(庭坂第一)がスタートで、郡山、喜多方、会津の東山、須賀川、二本松、川俣、三春、伊達(茂庭滝野)と次々に設置され、明治44年(1911)には、この本宮電気と相馬電気が設置される。
このエネルギーが、この辺りでは繊維工業の発展に寄与したのだろうか。その工場と電気エネルギーが太平洋戦争時には、軍事工場の役割を担ったのだろうと想像される。
本宮の繊維工場でもその役割を担い、空爆を受けた理由になったのだろうと想像される。
通り過ぎただけだったが、本宮の資料館の二階にこの空爆の資料が展示されていた。今度はそちらも観てみようと思う。
ここは、顎石堰から落とした水路が枝沢川から百日川へと続きます。
この付近に発電所の石垣の空堀があるので、たぶんここではと思いますが定かではないので、近くのお袋に聞いてみたいと思います。
お袋は横堀平から3km程本宮よりの場所で育っていますから、ひょっとしたら判るかもしれません。
今水路図が手元にありませんので、後で確認してみます。
街道Web管理人のTUKAと申します。
こちらは以前より拝見させて頂いておりました。
当サイトに森林鉄道と発電所を訪れた際のレポがございますので、
宜しければご覧くださいませ。
ttp://wing2.jp/~kaido/stop/mot-06.htm
実際に行かれたんですね。
跡が残っているんなら、参考にさせていただいて、なんとかたどり着いてみたいです。
村の方と話をして、場所を絞っていったのですが、もうここまでかと思っていました。
感激です。