小川の上流から取水する中野堰
2009年 02月 07日
井野目堰の取水口を確かめようとして、小川に出た。その土手から中野不動尊の方を見ると、真新しい記念碑がある。
確かめるとの中野堰の記念碑だった。その碑文によると、開削は、文禄2年(1593)より文禄3年にかけて、小川の中流の谷を堰き止めて取水し、トンネルを掘って小川下流の左岸の中野地域一帯の灌漑をしたもののようだ。ここも、江戸時代初期に、領地の生産高を上げようと開削されたという歴史をもっているということのようだ。
それが老朽化して、昭和55年度から改良工事が行われ、改修が完成したことで記念碑を建てたということのようだ。
半沢氏のフィールドワーク地図には、宝永6年(1709)トンネル大破とあるのをみると、管理にはてこずっていたものらしいことが分かる。
昔はこちらが堰の上流だったのではないかと思われる用水路をたどっていくと、
岩場を回りこんで、やがて小川沿いの岩場の中に入っていく。
谷になっているところまで行ってみると、現在は排水口とつながっている部分があるらしく、そこから水が小川に流れていた。
ここから上流には行けそうもない。
この小川の上流から岩を掘って用水路を通したようだ。後で確かめたら、堰場というところが取水口らしい。そこからこの岩をくぐってきているらしい。
その用水で、小川左岸の耕地が潤されているということのようだ。
中野堰の記念碑文
碑文
中野堰は、文禄2年(1593)より文禄3年にかけて、現在の小川の中流、中野の堰坂部落の谷を堰き止めて、用水路を開削し、小川下流の左岸中野地域一帯の約60haの用水路、内120間(約200m)はトンネルのため難工事であった。
このトンネルは、福島市史によれば、「往古より岩を掘り抜き内に柱を立て梁を渡し布木引きならし木を置き、崩岩を留め用水通し来り候所」とあり、中野地区にとっては重要な堰であったことが窺われる。
小川左岸中腹に堀削した狸掘の水路トンネル工事は大変なものがあり、たびたびの大雨出水により流され、難工事であり、くり返し襲ってくる水害とたたかいながら用水路を守り続けてきた。
しかし度重なる災害には勝てず、何回となく普請がなされ今日まで経過してきたが、トンネル内部の崩落、土砂流入等による堆積などから、通水量が著しく低下し、かつ崖の崩落を誘発し、トンネル上部の農地及び宅地に被害を与える恐れがあるため、昭和55年度から59年まで、団体営かんがい排水事業により水路工延長811mの工事が行われた。
また昭和57年から58年に農業施設災害復旧事業により頭首工の復旧工事が行われた。
さらにトンネルの内部が老朽化し、崩落の恐れがあることから、平成7年から平成10年まで、県営ため池整備事業によりトンネル区間180mを新設ルートに整備改良工事が行われた。
これにより中野地区の灌漑用水の安定取水が図られ、受益農家並びに防火用水・生活排水路等、一般住民の中野堰より受ける恩恵は計り知れないものがあり、水田の水管理の解消や果樹の振興等、地域産業に貢献するところ多大であり、ここに大偉業をたたえ、記念碑を建立し、後世に伝えるものである。
開さくを調べ先人の苦労を偲び事実を録するものである。
大宮勇
平成15年葵末
中野堰水利組合
碑のある位置
実はもうだいぶ前から拝見させていただいております。このところ私の住む界隈周辺の書き込みが多く、つい我慢できずに書き込みをしてしまった次第です。
ほかの書き込みをされているような方々のように何かを調べていたりしてない、いたってありふれた人間です。
そもそもの始まりは『片目清水』についての情報検索がきっかけでした。つきつめて調べたり、歩き回ってみたりはしてませんが、変わった地名や史跡などにある標柱などが気になっています。
そんな折、片目清水を調べたのでした。
特に何かの意見や考察等はないのですが、楽しみに拝見させていただいております、と言いたかったのです。
すみません、自己完結で自己満足な書き込みでしたが。
自己完結は、こちらも同じです。
気になった情報あったら教えてください。
あちこち歩いていて、最近気になるのか゜「水はどうしたか」です。
いわれの真偽はともかく、片目清水も多分古くから重要な清水としてあったのでしょうね。