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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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南沢又城

確か、阿保原地蔵尊の裏に架かる橋を渡っていった所に、城跡の標識があったはず。
矢野目堰を確認しようとしたついでに立ち寄ってみようと思った。

Mapionおおよその位置
南沢又城_a0087378_19284954.jpg 
  見覚えのある景色。桃畑の端に標柱は建っていた。

南沢又城 (南舘) 土塁
 福島市南沢又字西原前「南舘という屋舗あり。昔天正年間(1573~1592)伊達籐五郎成実(大森城主)家臣湯沢善兵衛の館跡にして東西70間、追年開墾し果樹園などとなすも、猶塁塹壕を認むるのみである」(信達一統志より)
 1999清水地区郷土史研究会

 説明によると、この地域の上杉の時代とも重なるようにみえるが、伊達氏の家来なら、天正19年(1591)伊達氏が仕置きによってこの地を去るまでが、ここの中心となる時代と考えてよいのではないだろうか。
湯沢善兵衛についてはよく分からない。伊達籐五郎成実(大森城主)ということについて、整理しておく。

 伊達氏とかかわる「大森城」としては、15代晴宗と14代稙宗がいがみ合った時代、稙宗側の拠点となっていることが特記すべきことか。これは、成実の父である実元が稙宗に従ったためだ。このいがみ合いは、室町幕府将軍足利義輝の仲介もあって天文17年(1548)に終結する。その結果稙宗は隠居、晴宗が15代を継ぎ、居城を置賜郡米沢城へ移すという経緯をたどる。

 成実が、その大森城主だったというのは、天正13年(1584)、実元が嫡男である成実に大森城を譲って八丁目城へ隠居してから、天正14年(1585)伊達氏17代政宗がこの城を拠点に畠山氏を攻略して、功のあった成実が二本松城を与えられて居を移すまでだ。

 大森城は、その後、重臣片倉小十郎景綱に与えられている。同17年の摺上原合戦においても大森城は重要な拠点となっている。

 成実の経歴を追うと、その後、摺上原の合戦、須賀川の役には伊達軍の中心勢力となって戦果を挙げる。
そして、天正19年(1591)伊達氏の領地替えで岩出山に移った時には、角田城に入っている。
 この時、この湯沢氏はどうしたかだが、……。

 成実、朝鮮出兵の後、戦功に対する位録を下におかれたことの不平で、ヘソを曲げて、角田城討伐を受ける。この時に、羽田実景以下三十余人の家臣が討死させたという。
それでも、上杉景勝から5万石で引き抜きには応ぜず、亘理城主として返り咲く。

 ここは、その成実の家臣の城ということで押さえておく。
南沢又城_a0087378_19334342.jpg
 さて、土塁だが、この道を指しているのだろうが、なかなかそうは感じられない。民家に入り込むような気がして、ちょっと気が引けるが、後ろに回ってみる。恐る恐る進んでみると、公道のようだった。


南沢又城_a0087378_19345729.jpg
 土塁は、民家を囲むように延びていて、


南沢又城_a0087378_19364625.jpg
 奥にその原型が感じられるところがあった。


南沢又城_a0087378_19375794.jpg
 裏側に回ってみた。


南沢又城_a0087378_19392926.jpg
 その奥の道も、土塁のような気もするし、畑道として造られたような感じもする。
 ただ、古に想いを馳せるには充分な景色ではあった。


 ※ 1月29日:福島県史で「南沢又城」についての記述を見つけた。
 次のようにふれている。
 信達二郡村誌にみえる、鎌倉時代の伊達氏関係の城館としては、保原城・南沢又城などがある。前者は二代為重が保原村の東裏に築いて住んだもの、後者は朝宗の臣湯沢善衛門という者が住んだと伝える。保原城はともかくとして、南沢又城は信夫郡南沢又西原(現福島市)にあり、朝宗の代に信夫郡内を領したとするのは困難であるから、この説は信用できないてあろう。

by shingen1948 | 2009-01-28 19:41 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)