本宮南町の建設~ちょっとだけ天地人にかかわる
2009年 01月 14日
これは、本宮追史会が観音堂境内に建立した小沼貞長の碑だ。慶長13年に、本宮南町を創設し(柳町・中町・舟渡り町)、本陣検断になった方だ。
彼は、元三春藩城主田村清顕の家臣で船引城主であったという。しかし、主家が廃絶して浪人となり、10年ほど田村郡の赤沼郷にいたが、慶長5年(1600)に、野中新助を頼って本宮どぶ町にやってきた。そこで、上杉領であった本宮の地250石をもらう。そして、伊達政宗に、銭200貫をもらって新しい町をつくる。 慶長13年(1608)には村高1500石の船戸町、中町、柳町が完成する。
これが、概要のようだが、この時、ちょっとだけ天地人の兼続とかかわっているようだ。
上杉景勝が会津へ120万石で入部したのが慶長3年(1598)で、本宮の地も統治する。しかし、直接小沼貞長にこの地を与えるという免状を発行したのは直江兼続だ。実務は、彼に任せられていたらしいことが分かる。
彼は、この本宮地方を預かる給人石栗将監に、「小沼貞長に本宮の地250石を与えるように」との免状を出している。慶長5年(1600)のことだ。
その免状の現物は、小沼家に残っているという。
ただ、上杉氏は慶長6年(1601)には、山形30万石に移動させられている。信夫の里は、それでも引き続き上杉の領地のままになるが、この本宮の地は、会津の蒲生秀行の領地になったらしい。
したがって、実際に南町の原型ができた慶長13年(1608)には、天地人の直江兼続とは関わりがなくなってはいる。ほんの僅かなかかわりのようた。
脇に建つ案内板では、以下のように説明している。
郷土につくした人
小沼貞長
貞長は田村郡船引城主でしたが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長5年(1600)57歳の年に本宮に移り住み、若松城主上杉景勝から荒れ地250石を与えられ、通称南町の地に新しい町の建設を計画しました。
貞長はこれに感激し、賛同した人々に奨励金を分け与え建設に着手し、慶長13年(1608)若松城主蒲生秀行の代に新しい町を完成させました。
慶長15年(1610)8月18日、68歳でこの世を去りました。
平成3年3月
本宮町教育委員会
文化財を大切にしましょう