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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫の里の天地人⑥~西根神社

 二日の飯坂方面の足慣らしは、西根堰関係だった。それで、西根神社と高畑神社にも詣でた。
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 神社の前には、祭神治績と御祭神略歴の案内板が立っている。
 この西根神社は、明治20年1月に、祭神、古河善兵衛重吉公と佐藤新右衛門家忠公として、官許創建されたものだ。

 祭神治績は、案内板説明では、治水関係と、寺院関係を挙げている。しかし、一番大きな功績は、西根上・下堰の開削であることは明らかだ。
 治水関係として、西根上・下堰、山形県高畠町4ケ村堰開削、阿武隈川の堤防建設、福島岡部地区の築壇、砂子堰、箱崎、井野目、中野、小川各堰の計画設計を挙げる。
 また、寺院関係としては、福島康善寺・霊山大善寺・康学寺・瀬上台巌寺・鳥渡政善寺等の建立。福島黒岩虚空蔵堂の再建を挙げている。
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 よく分からないが、高畑天満宮がご一緒なのは、祭神治績にある山形県高畠町4ケ村堰開削とかかわっての因縁なのだろうか。


 神社内には、いくつもの石碑がある。確認できるものを整理しておく。
信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_552197.jpg
 左側の碑は、昭和2年建立の「寛永の副碑」とのことだ。寛永の碑の翻刻碑とのことだ。
 次が、寛永の碑らしい。寛永10年(1633)、上堰完成の翌年に、古河善兵衛が自ら撰文し、建立した碑で、かつて取水口に建てられていたものという。
 その隣が、寛延の碑らしい。寛延4年(1751)に建立された古河善兵衛頌徳碑とのことだ。福島康善寺僧の撰文で、かつて穴原部落(旧地)の路傍に建てられていたという。


信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_5533494.jpg
 摺上大権現碑の裏面銘
 下堰(1618)
 上杉景勝公御代
 元和四午年開削
 石粟将監、須田普左衛門、島彦右衛門、鈴木清兵衛、奉行 平林蔵人佐正恒、佐藤新右衛門、青木金右衛門、青目甚之輔

 上堰(1624)
 上杉景勝公御代
 寛永元子年開削
 由緒穴原碑銘在依而姓名
 文政元寅 天十二日
 (1818)

 寛永の碑などの石碑が西根神社に移動する経緯について、福島民報(大正15年8月24日)が「穴原上堰から 珍しい古碑」の見出しで報じているらしい。

 穴原上堰に埋まっていた碑を掘り上げたら、西根神社の祭神古河善兵衛の碑だった。この碑を、西根神社に移し、別に該古碑の縁起を刻むことになったとのこと。
 穴原屋敷人々はこの碑に、供物を捧げ、尊信し供養していたが、大火の時、焼け落ちた巨木が倒れたため碑が二つに折れたと、畠一三郎氏の父の記録で明らかになったとも伝えているとのこと。


信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_5551541.jpg
 なお、鳥居のところには、三河国刈谷藩湯野陣屋跡の碑が建っている。
 これは、後の時代に、三河国刈谷藩の土井氏が治めた時代があって、その時にここに湯野陣屋があったということだ。







西根神社案内板説明内容
 祭神功績
 西根郷(伊達郡西部=旧33村)は、西北に山脈を控え、阿武隈の流れは遥か東方を巡り、地勢は山脚に沿い水の便に恵まれず、山間より流れる水を利用するも耕田少なく、土地は肥えていても、これにそそぐ水もなく原野のみ多く、開拓を望むもなす術もなく、手を拱くのみであった。
 代官古河善兵衛は、郡内を巡察し、佐藤新右衛門と会談の折、「当西根郷は水利に乏しきをもって、往昔佐藤基治公開堰を試みしも工事半ばにして止め、その後累代の郡主、方策を尽くすこと6度にして、終にその効を奏せざる至難の地形なり。」と聞き、「吾代官の職を奉ず、精神一たび至って何事かならざらん。何ぞ先人の失敗に屈せんや。」と地形を調査し、同志相図りて開堰を決意す。しかし、上堰は6度の失敗の難所で、未だ成功の自信もなく、まず下堰を開くべく主君に上奏、許可を得て、元和元年(1618)3月着工、3里10丁(13.1㎞)を9ケ月の短期間にて完成さす。
 更に、上堰を開削せんと上奏したが、工事の成否をめぐり甲論乙駁、決せずして不許可となったが、これに屈せず私財をもって開発せんと再度上奏し、終に許可を得ることに成功す。
 当時は土木機器進歩せず、測量、工事に苦心を重ね、寛永3年(1626)3月待望の上堰開削工事に着手。しかるに巌は堅く鏨もうけつけず、地形は摺上川に面するため岩をうがってトンネルとし、10m毎に2mの穴をあけて窓とし明かりをとり、殊に湯野堅苅はトンネルを掘ることもできず、長さ9m、幅2.2m、深さ2mの木樋を造り連結するなどの苦労、困難を極めたが、治承の昔基治公が計画して以来7度にして、延22㎞に及ぶ上堰が遂に完成。その間着工より6年の歳月を要している。
 この上・下堰を西根堰と称し、以来今日まで350有余年、満々たる水を供し続け、郷人に多大の恩恵を与えている。
 祭神治績
 「治水関係」西根上・下堰、山形県高畠町4ケ村堰(寛永2年)開削、阿武隈川の堤防建設、福島岡部地区の築壇(天和年間)、砂子堰(今の東根堰)、箱崎、井野目、中野、小川各堰の計画設計。
 「寺院関係」福島康善寺・霊山大善寺・康学寺・瀬上台巌寺・鳥渡政善寺等の建立。福島黒岩虚空蔵堂の再建。


 御祭神略歴
 古河善兵衛重吉公(1576年~1637年)
 米沢藩上杉定勝公の臣。信濃更科郡塩崎城主小笠原九郎左衛門重成(後で古河姓を名のる)の2男として天正4年(1576)生を享け、幼名を菊千代と称す。大志を抱いて公に願い、会津、米沢、伊達を巡回し、地の利や強弱を調査、再び調査に出発前に父死去、家名を継ぎ重吉と改め善兵衛と称す。
 慶長3年(1598)、主君会津に移封され、重吉は信夫、伊達両郡代に任ぜられる。同6年(1601)、上杉家は会津より米沢に転ぜられる。
重吉は、郡代として常に民を愍れみよく統治し、郡民はこれを敬慕す。特に西根郷民の土地肥沃なりとも、水利に悩む苦しみをみるにしのびず、西根下堰を開き、次いで私財をも投じ万難を排し上堰を開削し、郷民に潤いを与えた。
 しかし、寛永14年(1637)12月14日、種々の疑義ありと主君の召喚をうけ、米沢に向かう途中、山形・福島両県境庭坂の李平において自害。(原因諸説あり不詳)
 享年61歳
 辞世の歌
 巌かねを通さざらめやひとすじに
 おもいこめしに矢竹心を

 丈夫が身は砕けても国のため
 尽くす誠の花や咲くらん
 佐藤新右衛門家忠公(1573~1637)
 飯坂大島城主佐藤荘司佐藤基治公18世の孫、天正元年(1573)、伊達郡桑折にて出生。17歳にして仙道福原の戦に出陣、慶長7年(1602)29歳福島松川の合戦に功を挙ぐ。前年上杉家の米沢移封により250石をうけ、伊達郡西根郷の4郡役となり、代官古河氏を助け西根両堰開削の大工事を完成。寛永14年(1637)9月25日、65歳にて没す。
 御分社
 山形県高畠町4ケ村堰守護(西根神社)
 伊達郡桑折町藤倉ダム守護(藤倉神社)
 昭和62年11月27日
 福島飯坂ライオンズクラブ

Commented by TUKA at 2010-04-02 04:42 x
上堰の着工
1623 上記説明板
1624 wiki
1625 うつくしま電子辞典

西根神社建立
明治17年 うつくしま電子辞典
明治19年 wiki
明治20年 ブログ本文

間違いなのか、諸説あるのか、混乱しております。
下堰の長さも資料によってバラバラですね。
Commented by shingen1948 at 2010-04-02 06:10
 このページは、基本的には「福島の用水路(半沢)」によっての整理しています。上堰着工は、1624で整理されていると思います。
 西根神社の建立も同資料ですが、別の個所を確認すると、明治19年ともありますので、やや曖昧です。
 堰の着工について、単純なミスなのか、上杉からの許可、実際の工事着工という手順の時間差なのかというところがよくわからないところですね。
 本当は、もう少し曖昧なことがあって、この時初めて着工したのか、旧来試したものをつないだものなのかということもあるようです。
 下堰などは、着工以前に、具体的に湯野村に堰守の存在資料(1606)が存在するようです。
 堰の長さですが、実際に活用されているので、土地改良に伴って、常に改変されているようです。時代によって大きく違うのでないでしょうか。取り水口もかなり移動しています。
 上堰の旧取り水口は案内がありませんが、下堰は、案内板がたっています。
by shingen1948 | 2009-01-04 05:47 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)