人気ブログランキング | 話題のタグを見る

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

桑折宿で「奥の細道考」

 今朝も雪が積もっている。この雪、26日から降り続いている。
 25日の昼まではとても温かく、今年は雪もなく過ごすのかと思っていた。26日の気候との落差が大きかった。26日午前10時現在で福島では11センチの積雪となった。それ以来ずっと降り続いている。
 26日には、国道は伏拝で渋滞に巻き込まれ、6時に自宅着の予定が、8時半になってしまった。
桑折宿で「奥の細道考」_a0087378_6314877.jpg
 さて、桑折宿の現況の写真を掲げる機会がなかったので、それを掲げながら、散策人のたわごととして、勝手に奥の細道考を整理する。

 これは、桑折宿を北側に向かう景色だ。


桑折宿で「奥の細道考」_a0087378_6352549.jpg
 これは、桑折宿を南側に向かう景色だが、伊達郡役所がおさまりよく写る。

 奥の細道は、旅そのものの記録ではなく、フィクションとして整理されていることについては納得していた。安積の「はなかつみ」から黒塚までや、医王寺など、そこに思いを表現するために文学的手法としてフィクションにしている。それは納得なのだが、桑折宿の散策を整理していて、ここが芭蕉の奥の細道とかかわらないことが不思議に思えてきたのだ。

 当時の桑折地方は東北の中でも俳諧が盛んだったという。著名な俳人が桑折を訪れては、馬耳を始め多くの俳人と交流していたということだが、芭蕉はここでは立ち止まらなかった。それだけならこの不思議は整理できるが、それだけでないのだ。

 文学に疎いせいかもしれないが、芭蕉の奥の細道の旅は、歌枕を訪ねる旅と聞くし、野垂れ死にすることも覚悟しての旅とも聞いている。それならば、葛の松原をすたすたと通り過ぎる心意気が分からないのだ。
 東北を旅した有名な歌人に、西行法師がいると聞く。そこにも登場する覚英僧都は、名も知られず、この地を仏法有縁の地と定めて入寂したとのことだ。
 これは、芭蕉がこの旅に込めた思いの原型の姿のはずではないかと思うのだ。しかも、「葛の松原」自体を命名したのは芭蕉とも言われているらしいとも聞く。芭蕉は「撰集抄」を通して、覚英の歌を愛し乞食の覚悟に共感していたとも聞く。

 よく考えて、飯坂で体調を崩したので見落としがあるとも解釈はできる。しかし、厳しくも見ることができる。
 芭蕉の旅は、実質的にはさらりと通り過ぎる旅でしかなかったと解釈もできる。先人のように、何度も訪れたりするわけでも、本当に野垂れ死にを覚悟した旅でもないとみたら失礼な話なのだろうか。
 もっと好意的に、本当はここで立ち止まり感銘したが、それを作品としては取り入れず、その精神を序文に込めてみたというふうにみるのがいいのか、素人には分からない。

 実は、同様なことは、七夜桜でも感じたことを思い出す。
 藤原実方が、奥州街道を任地に向かう途中、七夜桜が満開だったのを見て都の桜に思いを馳せた七夜桜でも芭蕉は立ち止まらなかったのだ。
この後、芭蕉は、笠島で藤原実方をみちのくの旅を先駆けた方への憧憬を持つものとしてその墓を探すのだが、……。

 元禄2年(1689年)5月3日、芭蕉一行は仙台領に入って白石に一宿し、岩沼の武隈の松に立ち寄った後、名取を目指し奥州街道を北進する。
断続的に降り続く五月雨の中ようやく名取に差し掛かり、土民に実方や西行の旧跡の処を尋ねると、右の山際で街道から一里ばかり先という。しかし、日没が迫り、悪路の道中で疲労したため、先行きを案じた芭蕉は、『笠嶋はいづこさ月のぬかり道』の句を詠み、涙をのんで名取の里を後にしたという。
 西行の話は、実方が死んで188年の後、西行にとっては二度目の陸奥への旅で、実方の墓に立ち寄り、霜枯れのすすきに心を寄せながら詞書と和歌を一首残したという、文治2年(1186年)の話とのことだ。

 それだけではなく、芭蕉が安積ではなかつみを探し歩いたことは、陸奥守となった藤原実方の故事がかかわっているらしいとも聞くのだ。

 それでも、七夜桜を見逃したのか無視したのか。これも、そうではなく「はなかつみ」や藤原実方の墓を探すということに集約して表現したというのか、散策人には分からなかったのだ。

 ちょっと疑念が深まったのは、桑折宿の「田植塚」でだ。これを整理する時にも触れたが、奥の細道宣伝の広報担当者がいて、蕉風俳諧を広めようと働いていることや、その広報の方法が「田植塚」なるもので、これが全国にあるというのも驚きであり幻滅といったところだ。しかし、よく考えてみると芸術なるもので生活するには、当然のことかもしれないとも思う。ただ文学の世界にも疎いので、作品自体が醸し出す力で古典として残っているのだと勝手に思っていただけなのかもしれないと。

 野垂れ死にすることも覚悟して旅し、本当に仏法有縁の地と定めて入寂したものは名も知られるはずもなく、軽やかな覚悟で軽やかに表現できたものが、もてはやされるのが世の中というものかと。
Commented by at 2008-12-28 18:51 x
お久しぶりですm(__)m
芭蕉や葛飾北斎は実は忍者だったとか?小耳に挟んだことがあるのですが、真偽の程は??
Commented by shingen1948 at 2008-12-30 04:53
お久しぶりです。
忍者かどうかは分かりませんが、スポンサー無しでは成り立たない商売ではありますよね。
感覚的には、実際に歩いてみると、移動スピードがものすごく速いです。当方も、家人に呆れられるぐらい歩きますが、福島近郊での移動距離は、当方の感覚の3倍ぐらいかな。
今回、桑折の散策では、通り過ぎる前後にうろちょろとする弟子の姿を感じました。
by shingen1948 | 2008-12-28 06:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(2)