地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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半田銀山史跡公園

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  この公園で直ぐに目につくのは石垣だが、これは橋脚跡とのことだ。この遺跡のある場所に、あちこちにあった銀山関係の遺跡を集めて、半田銀山遺跡公園としたらしい。
 案内板によると、この石垣の上を、かつてはズリをのせた車が、行き来していたらしい。この橋の下の道が「羽州街道」という。
 桑折町散策ガイドブックによると、石垣の北の水路に架かる小橋が『女郎橋』といわれるもので、桑折宿まで来た鉱夫たちを女郎が見送ったところといわれているということだ。
 ここの案内板は、半田銀山そのものの説明が主で、ここの遺跡そのものの解説はなく、最後に総括的に以下のように説明されている。
 半田銀山の遺構としては、半田山中腹に江戸直山期の手堀り鏨彫り(たがねぼり)の中鋪坑(なかしきこう)が200有余年の歴史を秘めて崩落することなく現存し、此の地の女郎橋跡、鉱滓運搬軌道跡の石垣・明治天皇行幸記念碑・また歴史の中に消えていった銀山役人や多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養碑。各所に残る石臼・ズリ山なと往時をの隆盛を偲ぶものが少なくない。又、半田地区には、半田銀山に関わる地名として、鍛冶屋敷・御免町・十分一・大門先・水抜などが残っておりこの地方一帯が半田銀山と深く繋がっていたことが伺える。

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 これは「半田銀山坑夫供養塔」だが、先日整理した伊達郡役所二階の解説を貼り付けておく。
 半田銀山には、かつて銀山で働いた人々の墓が無縁仏となって静かに眠っている。
 今はその人々がどこからきた人々なのかを確かめるすべもない。ただ、半田地方の人々ではなかったようである。



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 この神社には、半田銀山坑夫供養塔の案内板だけあって、何度か探したが見つからなかったのだが、この公園に移動したということなのだろうか。それともまだこの神社にあるのだろうか。


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 先に明治天皇行巡幸にかかわって整理した明治天皇行幸記念碑もここにある。
 ここにも、伊達郡役所二階の解説をもとに整理したことを貼り付けておく。

 これは、元々は桑折町井出二郎氏宅地内にあったが、ここは、明治期の銀山経営社だった弘成館の精錬場跡。
 弘成館とは初代大阪商工会議所会頭をつとめた五代友厚が明治6年につくった全国の鉱山の管理事務所とのこと。

ここには、案内板が立っている。もう一度ここに掲げる。
 明治9年6月21日 明治天皇は奥羽御巡幸にあたり右大臣岩倉具視、参議大久保利通、内閣顧問木戸孝充外を随伴し半田銀山に御臨幸され鉱山施設をつぶさにご覧になられた。時移り昭和6年8月当時の半田村は、その聖蹟を記念し北半田字銀山の弘成館前(現井出二郎氏宅)に行幸記念碑を建立した。今般、半田銀山史跡保存整備事業に際しこの地に移転し、天覧の栄に浴した往時の半田銀山の隆盛を思い起こし滋に地元住民と共に永く保存顕彰するものである。
 平成元年3月
 桑折町・桑折町教育委員会


 ここの案内板と一部桑折町の広報誌によって、半田銀山の概要を整理すると、以下のようなことらしい。

 半田銀山は、かつては佐渡銀山、生野銀山とともに日本三大鉱山と称せられた。
 慶長3年(1598年)米沢藩上杉景勝氏の代から本格採鉱が始まり、隆盛を極めだのは、江戸時代と明治期。
 銀山に目をつけた徳川幕府は、延享4年(1747年)に、周辺1万2千2百石余を直轄領とし、佐渡奉行の支配下に置き、寛延2年(1749年)には桑折代官神山三郎左衛門をその任にあてた。
 以来、半田銀山は幕府直営の御直山と同組織で経営され、役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣された。産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えるに至った。
明治に入って五代友厚、龍作による近代鉱法を取り入れ、近代鉱山として再建させた。それまでの技術では銀に精錬できなかった鉱滓を、精錬できるようになったという。
 明治9年、14年には明治天皇の臨幸を仰いで、明治、大正、昭和と操業を続けたが、半田山の地すべりや、産出高の減少により衰退し、戦時中に日本鉱業の経営に移ったが、再建できず、昭和25年(1950)休山、その後も鉱脈調査が行われたが、同51年に廃鉱となった。ここに、三百数十年にわたる半田銀山の歴史に終止符がうたれた。





「半田銀山遺跡案内板」説明内容
 桑折町指定文化財
 史跡 半田銀山遺跡と明治天皇行幸記念碑

 奥州半田銀山は大同3年(807)の発見と伝えられ、かつては佐渡金山、生野銀山と共に日本三大鉱山と称せられ、江戸・明治期にその盛を極めた。史実によれば、慶長3年(1598)上杉景勝が伊達信夫の二郡を領し、半田銀山の調査開発を手がけ、景勝の孫綱勝が寛文年間(1661~)家臣伊達平十郎に栗林鋪(くりばやししき)を開口させ本格的に採鉱が始まった。
延享2年(1723)に、幕府は半田銀山の良鉱なるに着目し、半田銀山及び周辺12000余石を直轄領とし、佐渡奉行の支配下におき、寛延2年(1749)には桑折代官神山三郎左衛門をその任にあてた。以来半田銀山は幕府直轄の御直山として奉行所を設置し、在方役・吟味役・地方役・勘定役など佐渡金山と同組織で経営され、役人も佐渡・石見・生野から交替で派遣され算出量も伸び、幕府の財政を大きく支えるに至った。宝暦3年(1753)からは、役所、山師、金銀吹分師、坑夫などの居住する買石町が設置され、 41軒の床屋(製錬業)、16軒の商店、1326人の川せり人(川撰工)の住居などが軒を並べていた。
 直山としては、本盤・大剪(おおぎり)再光・二階平など10余の坑を数えたが元治元年(1864)鉱脈の枯渇から経営不振となり直山経営を中止した。幕府の経営中止による住民や堀子達の窮状をを見かねた地元北半田村の名主、早田傳之助が慶応3年(1867)坑業を再開したが、明治3年(1870)坑内火災により息子・坑夫多数の犠牲者が出、経営から手を引き事実上の閉山となった。
 明治7年に至り、元鹿児島藩士、政商五代友厚により近代的鉱法を取り入れ再開発に踏み出し、明治9年には明治天皇の奥州御巡幸にあたり、岩倉具視・大久保利通等を伴い半田銀山に御臨幸され鉱山施設をつぶさにご覧になった。その後、明治年間に活況を呈し、大正、昭和と操業を続けたが、明治43年(1910)の半田沼決壊による工場施設への被害や鉱脈の枯渇などにより昭和25年(1950)日本鉱業は採掘を停止しこれにより上杉。幕領・五代・日本鉱業へと幾多の盛衰変遷を遂げ、300数十年にわたる半田銀山もその歴史に終止符が打たれた。
 半田銀山の遺構としては、半田山中腹に江戸直山期の手堀り鏨彫り(たがねぼり)の中鋪坑(なかしきこう)が200有余年の歴史を秘めて崩落することなく現存し、此の地の女郎橋跡、鉱滓運搬軌道跡の石垣・明治天皇行幸記念碑・また歴史の中に消えていった銀山役人や多数の銀山坑夫、山師達の無縁墓碑供養碑。各所に残る石臼・ズリ山なと往時をの隆盛を偲ぶものが少なくない。又、半田地区には、半田銀山に関わる地名として、鍛冶屋敷・御免町・十分一・大門先・水抜などが残っておりこの地方一帯が半田銀山と深く繋がっていたことが伺える。
 平成元年3月
 桑折町教育委員会


 広報誌コラム『半田銀山遺跡(南半田字女郎橋)』より
 半田銀山は伝説では、平安時代の大同2年(807)に発見されたといわれていますが、本格的に開発されたのは、江戸時代初期の上杉氏によるとみられています。坑内の煤(すす)を使って科学的調査を試みたところ、1500年代という結果が出たので、それより若干早い時期に開鉱されていた可能性もあります。
 その後、江戸幕府が直轄領としました。産出高は時代によって変動がありましたが、一時は日本三大銀山のひとつに数えられる、盛んな時期がありました。 銀山の鉱脈は、現半田沼の地下付近にあり、最初は近くの、中鋪通洞坑付近から掘り出していましたが、幕末近くには、南半田字女郎橋付近から約三キロメートルの坑道を掘って採掘するようになりました。 幕末になると、産出高の落ち込みから幕府は経営を止め、代わりに北半田村の早田伝之助が経営に乗り出しました。しかし、早田家の経営も坑内事故などで順調にはいきませんでした。
 明治になって、薩摩藩出身の五代友厚が経営するようになります。五代は西洋の技術を導入し、半田銀山を近代鉱山として再建させました。それまでの技術では銀に精錬できなかった鉱滓を、精錬できるようになった部分が大きかったといわれています。この間、明治天皇の行幸を仰ぎ、旧鉱山事務所跡にあったその記念碑が、今は半田銀山史跡公園に移設されています。 また、ここには、五代を祀る祠も設けられています。
 その後、半田山の地すべりや、産出高の減少により衰退し、戦時中に日本鉱業の経営に移りました。それでも再建できず、昭和25年(1950)休山、その後も鉱脈調査が行われましたが、同51年に廃鉱となりました。
 現在は、南半田字女郎橋地内に、鉱山軌道が旧羽州街道を越えるために造られた跨道橋跡の石垣を中心とした史跡公園があります。ここは、昭和60年に町の文化財(史跡)に指定されています。そのほか、中鋪と呼ばれる坑道に達する昭和に掘られた通洞坑や、鉱夫の墓などの関連遺構が残されています。
 銀山で使用された道具などは、旧伊達郡役所に展示され、銀山関連の古文書は『桑折町史』第9巻に収録されています。

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by shingen1948 | 2008-12-27 06:22 | 半田銀山 | Comments(0)