地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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半田銀山遺跡

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  銀山の開口部は、上小坂小学校の前を左折して、しばらく進んだところにある。カネマン(株)木材・チップ工場入口の看板を右折して、少し進んだところに二階平坑跡がある。
 案内板によると、桑折、国見町を通じ半田銀山跡開口されている唯一のものとのことだ。


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 中は覗けるが、入ることはできないようだ。


町指定史跡
 半田銀山二階平鉱口
 昭和63年3月15日指定
 半田銀山は、大同元年(807)の発見といわれるが、盛況を呈するようになるのは、近世当初の慶長年間以降のことである。特に幕末の天保年間(1830~44)には、大量の灰吹銀を産出し、石見(島根県)生野(兵庫県)銀山とともに日本三大銀山に数えられる我が国屈指の銀山へと発展を遂げた。
 二階平抗は、矢筈山の中腹部にあって、嘉永7年(1854)の開抗とされ、北西の方向に掘り進み、2300尺(766m)で鉱脈に達し、多量の鉱石を採収したといわれる。
 抗口は、桑折、国見町を通じ半田銀山跡開口されている唯一のものである。
 平成元年3月25日
 国見町教育委員会

 旧伊達郡役所の二階には、半田銀山の資料が展示されている。半田銀山で産出した鉱石や、各地有名鉱山の鉱石が展示されているが、半田銀山の坑内写真なども掲示されているので、合わせて見ると分かりやすい。

 半田銀山遺跡は、現在は旧羽州街道と東北自動車道が交差した付近の半田銀山史跡公園公園に集められているが、元々のあり場所の確認などもできる。
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  早田傳之助家(桑折町北半田)の写真が掲示されていて、以下のような説明がある。
 慶應3年から明治3年まで銀山を経営していた明治初期の代表的な銀山経営者とのことだ。
 元治元年(1864)百二十数年続いた幕府経営も廃業となり、このために山に住み働いていた坑夫達は全く生計の道を失い、まさに飢餓に陥るような状態となった。
 早田はこの様子を見過ごすことができないといって経営に乗り出したとのことだ。


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 実は、羽州街道の途中にあり、趣のある景色として写真に収めたものが、この早田邸の塀だったというのは、最近気がついた。
桑折町散策ガイドブックによると、この早田家の邸宅は、銀山経営や新道開削など、地域発展のために尽力したとして町の指定文化財になっているとのことだ。


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 ここには、野原の銀山坑夫の墓の写真が掲げられている。そこには次のように解説されている。
 半田銀山には、かつて銀山で働いた人々の墓が無縁仏となって静かに眠っている。
 今はその人々がどこからきた人々なのかを確かめるすべもない。ただ、半田地方の人々ではなかったようである。

 先に訪ねた無能寺に眠る代官は、銀山とかかわるという意味で、銀山遺跡としてもよいのかもしれない。


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  御巡幸行列之図式の図の脇に明治天皇行幸記念碑の写真が掲げられている。


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  明治天皇行幸記念碑の写真には、桑折町井出二郎氏宅地内との注釈がついている。ここは、明治期の銀山経営社だった弘成館の精錬場跡らしい。
 弘成館は初代大阪商工会議所会頭をつとめた五代友厚が明治6年につくった全国の鉱山の管理事務所とのこと。
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by shingen1948 | 2008-12-25 20:24 | 半田銀山 | Comments(0)