葛の松原
2008年 12月 24日
これは、松原寺にある葛の松原碑だ。
今はこのあたりの景色にその面影はないが、ここも「葛の松原」という歌枕でもあるとのことだ。
この碑は、松原寺という寺の中にある。案内板にいう「松原寺自明上人と相諮り覚英の徳操を讃え明和5年(1768)2月17日栄機72歳の年にこの碑を建立した。」ということとのかかわりのようだ。
高台に向かう階段を登ったところにその碑はある。
ここに立っている案内板によると、この碑は、明和5年(1768年)、福島藩板倉公の重臣である河原栄機が、覚英僧都の事蹟が絶えることを憂いて、松原寺の自明和尚と相諮り僧都の徳操を讃えて建立したものとのことだ。
覚英僧都は、西行法師の説話集「撰集抄」第九巻末、南都覚英僧都事として記されているとのことだ。保元2年(1157年)2月に、覚英がこの地を仏法有縁の地と定めて、入寂したとのこと。
碑文には、序文と次の歌が刻されているという。
世の中の人には葛の松原と呼ばるる名杜嬉しかりけれ
なき跡も名こそ朽せね世々かけて忍ぶむかしの葛の松原
これは後で確かめたまた聞きのことだが、覚英と西行とは藤原一族の学問所で共に学んだ間柄とのことだ。それで、西行の「選集抄」に「世の中の人には葛の松原と呼ばるる名杜嬉しかりけれ」の句が記されたらしい。それを当時江戸にいた福島藩主の重臣だった河原栄機が知り、国元のこの旧蹟が風化するのを憂いて碑を建立したということのようだ。
この辺りを芭蕉は通ったと思うが、ここについてもふれることなく通り過ぎる。
これもまた聞きだが、支考の『去来抄』によれば、「葛の松原」自体を命名したのは芭蕉とも言われているらしい。芭蕉は「撰集抄」を通して、この碑に登場する覚英の歌を愛し乞食の覚悟に共感していたとのことだ。
ただ、芭蕉がここを通ったのは、この碑が建立される80年前とのことではあるらしい。
桑折町指定文化財
史跡名勝
葛の松原碑
昭和45年3月9日指定
奈良興福寺の学僧、権少僧徒覚英は、東大寺で具足戒を受け若くして権少僧となり将来を嘱望されていたが、保延3年(1137)旧8月夜半22歳の時発心し道を求めていずこともなく緒国行脚の旅に出立した。
いつの頃からか、陸奥国信夫郡葛の松原に鍚を留めこの地を仏法有縁の地と定め、行乞三昧に勤めていたが、保元2年(1157)2月17日甲の刻41歳を一期として入寂した。
覚英は関白藤原師通の4子、二条関白富家入道弟とあり、これらの事は西行選集抄第9巻末に、南都覚英僧都事として委記されている。
時移り、覚英入寂の約600年後、福島藩主板倉公重臣河原栄機は、退隠し江戸にあったが、ある日選集抄により、国元に覚英の事蹟有るを知りこの地を訪ね来た。境内に「葛の松原辻人の里二條関白家入道御弟覚英僧都入寂の旧蹟」の碑が風化しておりこの事蹟の絶えるを憂い、松原寺自明上人と相諮り覚英の徳操を讃え明和5年(1768)2月17日栄機72歳の年にこの碑を建立した。
碑文は江戸深川住の三井親和(1700~1782)の書による。親和の字は、孺卿、号は竜湖、万玉亭と称し江戸の書家として名高く篆書を能くし詩歌、武芸にも秀でていた。
碑には二つの和歌が刻されている。
世の中の人には葛の松原と呼ばるる名こそ喜しかりけれ
なき跡も名こそ朽せね世々かけて忍ぶむかしの葛の松原
又、栄機は和歌にも秀でた覚英を偲び、追善の歌を募り、和歌集1巻を編んでこれを手向けとして当寺に納めた。この和歌集には、38名の歌人の名と歌が連ねられ松平忠頼室を初め武家の女性11名の名も見える。これも町の文化財に指定されている。
平成2年3月
桑折町教育委員会
この辺り開発が進んで、昔の面影ある道筋がよく分からない。切り取られた面影ある景色がないかを探してみるが、この辺りの水源地らしいところにたどりついただけだった。
※ 以下に、よく分からなかったので、散策後に確かめたことを付記しておく。
○ 「去来抄」というのは、向井去来の俳論書で、「先師評」「同門評」「故実」「修行」の4部で構成されているという。これは、去来の芭蕉の随聞記的資料で、「さび」「しをり」「不易流行」などの大切さについて述べた俳論とのこと。
○ 26歳の子規は、明治26年7月に芭蕉を追体験するため奥州へ旅にでるが、人力車でこの葛の松原に来ているらしい。