旧奥州街道の桑折宿
2008年 12月 21日
桑折の宿場は、『延喜式』の陸奥国駅馬にみえる伊達駅に関係した古い集落で、戦国時代には桑折氏や伊達氏が本拠とした。
その桑折氏の菩提寺である桑折寺(時宗)は、伊達郡役所(国重文)の前の通りを西に行った所になる。
桑折氏は伊達氏の分家であるが、その菩提寺である桑折寺は、永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(1848)に庫裏を再建したとのことだ。
ここは先には、伊達氏の西山城にかかわる桑折寺山門の興味から、『桑折西山城③の搦手門~「桑折寺の山門」』として整理していた。
また、その先の産ヶ沢川沿いには、伊達氏の始祖伊達朝宗(満勝寺殿)の墓があるが、これも、『伊達氏の祖「朝宗の墓」を訪ねる』として整理した。
この後の支配者は転々と変わるが、代官所や桑折藩陣屋が置かれ、西根郷の政治経済上の中心ではあったということだ。それで、明治になってここに伊達郡役所がおかれるなどしたということのようだ。
今回は、ここに無能寺(浄土宗)や芭蕉塚を加えて、更に懐かしい路地裏の風景を加え、桑折宿を整理しておきたい。
無能寺は、旧街道沿いの上町にあって、『念仏勧化現益集(ねんぶつかんげげんやくしゅう)』を著した名僧無能上人が再興したとのことだ。
ここには、代官の方々の菩提寺になっているようだ。寺の墓地に入ってみると、その代官関係の墓には案内の石柱が建っていた。
この寺は、明治14年にの明治天皇の東北御巡幸の際、ご休憩所にもなったということだが、地理的な条件に加え、そういった由緒の背景もあってのことであろうか。
ここで明治天皇が御休憩されたことが、この寺の誇りでもある。寺前には明治天皇ご休憩所の記念の石碑が誇らしげに建っている。
その明治天皇の御休憩かかわりで、御蔭廼松(みかげのまつ)の案内板が建つ。
明治14年8月10日明治天皇東北御巡幸の際、無能寺がご休憩所となりました。本堂前の老松、径12間、天皇はこれを御覧になり杉宮内大輔に樹齢を問われたので住職矢吹良慶は「300年」と申しあげ、やがて天皇は杉宮内大輔に松の名を命じられました。
杉宮内大輔は「御蔭廼松」と名ずけ和歌一首を詠じたのです。
「おほみきの みかげの松の深みどり 夏も涼しき 色に見えつつ」
※12月27日付記
先に整理した「羽州街道追分」をここに加え、芭蕉が足を止めることなく通り過ぎた桑折宿としてとらえることができる。