小国城跡
2008年 11月 17日
昔、この辺りを散策したことがあって、ここが小国城らしいと聞いていたのを思い出して懐かしかった。当時は、霊山城にかかわっているらしいこと、狼煙場としての役割などと認識していた。
表示板があったような記憶があるが、みつからなかった。民家の畑地でもあり、攻め方も分からなかった。
家に戻って、「山形・宮城・福島の城郭」で確かめると、東側から水の手である井戸が平地と接する位置にあり、ここからが大手口に繋がるらしいことが紹介されていた。
今回、茶臼山の掛田城も立ち寄れなかった。再訪の際、この二か所に立ち寄れないかを検討してみたい。
同誌では、この城を以下のように紹介している。
南北朝時代の観応2年(1351)11月に、北畠守親は、顕信等と北朝方の足利兄弟の諍いに乗じて、国府から北朝の吉良貞家から、一時奪回する。しかし、翌年3月には、形勢が逆転して、北畠顕信が、国府を追われて敗走する。
この北畠顕信が、国府を追われて敗走の途中何日間か滞在した城が、大波城とこの小国城であったが、論争されたことがあったとのことだ。
この論争については、戦前、皇国史観が華やかだったころに、北畠氏を顕彰するための論争だったと紹介する。そして、それは、この小国城の可能性が高いとみている。
また、明治23年頃畑地に開墾する時毘沙門天銅像や八弁花紋の軒丸瓦や布目瓦が出土し、これらは現在霊山神社に所蔵されているとも紹介されている。
「小国城要図」(山形・宮城・福島の城郭)
この論争に客観性を持たせる配慮のためだろうか、一般的に大波城という言い方をしているところを、水戸内館という言い方をしている。