「磨上原の合戦」の政宗
2008年 07月 26日
磨上原の合戦で優位に立った政宗は、大寺の「陣の館山」に陣を張る。この時には、葦名勢は柏木城を撤退している。政宗は「陣の館山」に城を築きそうな気配を見せて、一週間後には、黒川に入ってしまう。素早い状況判断と決断、そして素早い動きが展開される。
黒川に入っても直ぐに黒川城には入らず、興徳寺を仮の居館としているようだ。
この寺には、伊達政宗の後、会津に入った豊臣秀吉も、ここを臨時の政庁にして奥州を新秩序にすべく采配を振るっているという由緒ある寺だ。
その興徳寺は、去年訪ねて「蒲生氏郷の墓を訪ねる」としてまとめた。
政宗は、ここを基点にして向羽黒山城の整備を急いでいる。普請の様子を見に自らも頻繁に出かけている。この普請には約10ヶ月をかけている。
黒川城の改修に優先して向羽黒山城の改修を急いだのは、 磨上原合戦ですべてが平定されたわけでなく、特にに南会津と津川では抵抗戦が続いていたからだ。
南会津の山ノ内氏勝は、本拠の金山町横田の中丸城を中心に、越後の上杉景勝を援護に頼んで激しい抵抗戦をし、津川の金上盛実は、石田三成から抵抗戦を促れているという。
東には、須賀川城があり、城主の二階堂の背後には佐竹義重と岩城常隆の家臣が送り込まれている。10月には陥落し、周囲の館20余もほどなく伊達勢の手に落ちるが、この時点では、緊迫した状況であったろう。
政宗は、その拠点として向羽黒山城を整備することを最優先にしたようだ。
黒川に入る前には、館を築き始めて、状況の変化を看取ると、黒川に入る。城に入る前に、興徳寺を仮の居館として、向羽黒山城の整備を急ぐ。その間にも攻防戦が続いているという緊迫した状況だ。
政宗の荒々しい息遣いが聞こえそうな緊迫した状況が感じられる。