義民⑤ ~名主半十郎供養塔
2008年 07月 16日
文化13年(1816)年に、新発田藩八島田村三郡大庄屋吉野の不正を訴え、文化15年(1818)2月に、不正をした大庄屋吉野とともに、死罪になった一揆の指導者上名倉村名主半十郎の供養塔である。
寛政元年(1789)から庄野、上名倉、荒井、成田などは笹木野村などとともに越後国新発田藩の飛領となって、八島田村の陣屋の支配を受けていたが、そこの役人である名主吉野家が悪政を働いたので、上名倉村名主半十郎が越後に訴え、両人とも打ち首にされたというものだ。
この悪政というのは、凶作の時のためにとっておいた米をごまかして自分のものにしてしまったことのようだ。
支配の各村では浄財を集めて半十郎のために上名倉長勝寺に供養塔を建立したという。
最初に寺を訪ねたときには、この供養碑が分からなかった。墓地も探したがわからなかった。
改めて訪ね、寺の門から出ようとしたら、朽ちた案内標識があった。それによると寺の正面にある2つの石碑と1つの地蔵のうち、右側の門のすぐ傍の石碑がこの供養塔らしい。確かめると、石碑の左側に半十郎の刻字が見えた。
寺の前の大杉には年月を感じた。
この杉は、福島市の保存種であるらしい。この木の根が堀にかかって橋になっているというメモを見たことがあって確かめたが、今は道として整備されてしまっていた。