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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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藤田城へ②

  藤田城の築城年代や築城者については分からないようだが、この城の興味は、二つだ。その一つは、阿津賀志山の戦いとのかかわりであり、その二は、伊達氏とのかかわりだ。
 国見の地は、東北の歴史を塗り替えたところであるが、その一つ阿津賀志山が平泉藤原氏幕引きの場といえるということだ。
 平泉方の大将藤原国衡の軍勢は、阿津賀志山に陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃つ。防塁構築の努力もむなしく、奥州軍が敗走するきっかけの地だ。ここで、平泉藤原氏は幕を引き、芭蕉のあこがれる義経の忠臣佐藤基治が討死する。
案内板の説明によると、文治5年の阿津賀志山の戦いとの関わりでは、その敵の源頼朝の本営が置かれたとのことだ。それで「源宗山」の地名のになったといわれているとのことだ。

 そして、この戦いでは、新しい奥羽の統治者も登場させている。それが伊達氏で、この戦いで功を遂げた常陸入道念西が、伊達郡を与えられて初代伊達朝宗が伊達氏を名乗るのである。
 案内板の説明では、その伊達氏とのかかわりについて次のように説明する。
 室町時代以後は、伊達氏家臣藤田氏の居城であったこと。また、天文11年の天文の乱では、城主藤田晴親は伊達稙宗方に与して破れ、相馬氏を頼って落ち延び、城が廃城になった。藤田氏はその後晴親の子宗和が伊達政宗に帰参して仕えているとのことだ。
 直接的な説明ではないが、南北朝時代について、霊山城の支城として南朝方の拠点であったことも伊達氏との関わりとして読む。
 霊山城に南朝の拠点があったのは、伊達氏とのかかわりだからだ。伊達氏は一貫して南朝を支え続け、その伊達氏を信頼してここに拠点を置いたらしい。伊達氏はそのために打撃を受けるのだが、その後よみがえるのだ。だから、案内板の室町以降の説明とつながる。
藤田城へ②_a0087378_431991.jpg










案内板は次のように説明している。


町指定史跡
藤田城跡
指定 平成5年10月1日
 藤田城跡は山崎字南古館・北古館・通称「源宗山」藤田城は通称「源宗山」に位置する中世の城館跡である。現在は中心部が東西約180㍍・南北160㍍の略方形を呈する広大な平場で、西辺と南辺の一部に土塁跡、北西隅に桝形虎口を残しているが、明治期の地籍図によれば城跡中央部に方形の区画があり、本来は複郭式のの城跡であったと考えられる。
 伝えによれば、文治5年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置き、阿津賀志山の奥州藤原軍の陣を攻める指揮をとり、それが源宗山の地名の起こりになったといわれている。
下って南北朝の時代には、藤田城は霊山城の支城として南朝軍の拠点となっており、貞和3年(1347)奥州管領吉良貞家の率いる奥州の北朝軍を総動員した軍勢の攻撃を受け、激戦の末落城している。この時期の城主は不明であるが、伊達行朝か藤田下野守と推定される。
 室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられるが、本宗家は一時断絶している。戦国時代の天文年間(1532~1555)に藤田氏は再興されたが、奥州守護伊達稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱で稙宗方に付き、敗れた藤田晴親は相馬に逃亡したため藤田氏は再び断絶することになる。この時点で藤田城は廃城になったと思われる。
現在見られる城の遺構はその形態・構造から、天文の乱時点のものと考えられる。
平成12年2月
国見町教育委員会

by shingen1948 | 2008-06-27 04:34 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)