桑折西山城④の変遷
2008年 05月 09日
桑折西山城は、1990年(平成2)に国の史跡に指定されているが、それは室町時代の城としての指定である。
具体的には、1532年(天文元年)に、伊達家14代伊達稙宗が、戦国時代の訪れを予期していたのか、本拠を平城の梁川城から桑折西山城に完全に移して大改装されるのだが、これが指定対象になっているらしい。
この城の沿革は、はっきりしないが、高館に初代朝宗の創建、9代の政宗の創建という話があり、その前にもともとは佐藤氏のかかわる館だったのではないかという話がある。
「山形宮城福島の城郭」には、この城と関わる戦いも紹介されている。
応永7年(1400)に、先の政宗が、稲村公方足利満貞の下知に従わなかったので、関東官領足利満兼が、赤館と長倉館を討たせた追い返された。
応永9年には、勅使河原兼貞が28万騎で赤舘・長倉舘を攻めたが、追い返され、兼貞は生け捕りにされたと「余目氏旧記」にあるという。
同年、上杉憲が、近国の軍勢を動員して赤館に攻撃を加えて落城させ、政宗は会津に走ったという。
中央との戦いでも、かなり持ちこたえてなかなか落城しなかったらしいことが分かる。
そういった変遷があって、その後伊達家14代伊達稙宗の時代の改修で、西館、中館を整備したのではないかと思われる。この時代が指定の対象になっているのは、次の15代晴宗が米沢に移城していくので、ここで変遷がストップするからだろう。
実際に歩いてみると、この西館が虎口や石垣が戦国時代らしい雰囲気を漂わせているように感じる。
この時代、稙宗が「天文の変」で幽閉されたのが、隠居館なのだろう。恐らくこの時の本郭は西館であり、その隣りに位置するところに幽閉されたのだろうか。この時には、高館はひとつの出丸としての役割だったのだろうと想像する。
ストップしたはずの変遷が、少し動こうとしたのが、本多忠国の延宝8年(1680)の構想らしい。福島の城が手狭になって、ここに居城しようとしたことがあるらしいという話だ。わずか2年後には移転となり築城は中止されるが、石垣部分などはその遺構ではないかともいわれているらしい。
その後が、戊辰戦争時に、奥羽列藩同盟が仙台伊達藩を主力に陣を敷き、案内板のあるところに砲台を置いたということである。
したがって、指定としてはこの砲台跡も曲輪の一つとみるべきであり、そこから土塁が張り出し大手門になり、先端部が土塁に覆われていて、後方が段々に高館に続くと見るべきだろうか。
案内板説明内容
史跡
桑折西山城跡
平成2年2月19日
桑折西山城跡は、室町時代に築城され、奥州戦国大名、伊達稙宗・晴宗(奥州探題)の居城跡で、標高193mの高舘山を中心に位置し、本丸・中舘・西舘三郭からなり東西880m・南北570mの自然の要害をなす中世山城です。
陸奥国守護、伊達稙宗は西山城にあって天文5年(1536)伊達氏の分国法「塵芥集」を制定し、同11年には、稙宗と晴宗による天文の乱が起こり南奥羽諸大名と家臣を二分する大乱に発展し、西山城の攻防が繰り返されました。
城跡には、空堀・石塁・土塁・井戸跡などの遺構が良好に保存され、よく戦国時代の大名居城の姿をとどめる重要な遺跡です。
○ 指定の場所
桑折町大字方正寺字本丸・中舘・西舘・山田前・山田・源吾山・舘表・大手先・舘ノ腰・舘東・舘裏・唐沢・三反歩・化粧道
○ 指定面積
285.520.71平方m
文部省
福島県教育委員会
桑折町教育委員会
※注意
この史跡は、文化財保護法によって指定されております。みだりに現状を変更して減失・き損・衰亡等保存に影響を及ぼす行為をしたものは処罰されますからご注意ください。
平成3年3月