伊達氏の祖「朝宗の墓」を訪ねる
2008年 05月 03日
文治5年に鎌倉方は、30万の大郡を奥州に下らせ平泉攻めを行ない、その初戦が、石那坂、阿津賀志山の戦いである。伊達氏の初代朝宗は、そこで功績があった常陸入道念西である。
ただ、最近は、念西自身は戦闘には参加せず、息子の常陸冠者為宗、二郎為重、三郎資綱、四郎為家が戦ったともいわれているらしい。
念西は奥州攻めの功績で伊達郡を賜り従来の伊佐、中村の姓を伊達と改める。そして、頼朝の一字をもらって朝宗と名乗るようになったとのことだ。
その初代朝宗の墓は、桑折町睦合字万正寺地区にある。国見からの帰りに立ち寄ってみた。
今残る五輪塔は文政4年(1821年)に建てられたもので、伊達氏歴代の当主は参勤交代のさいはこの地に行列を止めて必ず墓参したという。
伊達氏の系図には「某年10月2日71歳で死去、遺骸は陸奥国伊達郡桑折の満勝寺に葬る」とあるらしい。
この初代伊達氏朝宗は、高子岡に初めて根拠地を置くが、そのことは、先に「伊達家発祥の地「高子岡城跡」を訪ねる 」と題して書いた。
そして、現在の様子については「高子ケ岡の「亀岡八幡宮」」と題してまとめておいた。