阿津賀志山防塁②
2008年 04月 28日
福島の地を散策して感じるのは、戊辰戦争や縄文遺跡などはあるが、ほとんどは勝者の足跡が常であるということだ。
防塁は、国見の地が、平泉藤原氏幕引きの土地としての証である足跡ともいえる点で感慨深いものがある。
平泉方の大将藤原国衡の軍勢は、ここに陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃つ。そして、防塁構築の努力もむなしく、奥州軍は敗走する。
国見町ホームページに、阿津賀志山防塁についての説明がある。」
阿津賀志山の中腹から平野部に向かって阿武隈川の岸にいたるまで、約4kmにわたって、延々と築かれた空堀と土塁とからなる防御施設が阿津賀志山防塁です。大部分が内と外二条の堀と土塁とからなっていますが一条の所もあります。防塁をつくるに要した労力は延べ25万人、6ヶ月以上もかかったと推定されています。この防塁をこの地では二重堀と呼んでおります。
このことからも、泰衡は鎌倉軍の侵攻に備え、計画的にこの防塁を築いたことが伺える。
また、この阿津賀志山の地に、防塁を設置しようとしたことも合理的に思える。
ここは今でもJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻む場所だ。鉄道も道路も阿津賀志山を大きく迂回して、山と山との隙間を通り抜けていく。もともとが、天然の要害の地なのだ。
ここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な場所なのだ。
この阿津賀志山防塁は、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられているとのことである。
今回、阿津賀志山山頂から順に防塁を探ったが、すっきりと焦点が合ったのは、二重堀地区である。もう一度辿れば、よりすっきりと全体像にせまれると思っている。
この辿り方だが、逆から辿れば効率よく防塁を実感できたかも知れないと思う。反面、すっきりしないもやもや感がつのっていく中で、最後にすっきりと焦点が合うという体験をもったということが、この防塁の大きさの実感とともに大切な体験であったとも思っている。