道徳教育の充実について
2008年 03月 01日
「福島民報」は、道徳教育の充実を打ち出したことを中心に論じているのだが、どこか違和感があった。
論説氏は、時代の要請と考える理由を以下のように考えているようだ。
我が国の現状、とりわけ子ども達を取り巻く環境を憂えるからだとのことだ。それは、法に触れなければいい、法に触れても見つからなければいいという風潮に社会全体が流されていないか。少年による殺人事件など凶悪犯罪の相次ぐ発生は、犯罪の質的な変化を含めて危惧せざるを得ないという。これは、規範意識がどこか希薄になっているからだ。
一見すると、もっとものように聞こえるが、子どもに規範意識を教えれば、子どもの取り巻く環境は、論説氏が考えるように改善していくのだろうかと疑問に思う。
社会の風潮に負けない子どもを育てろということだろうが、正義を通すのは大人でさえ容易ではない社会だ。そのことは、先に二日にわたって書いた「プリンスホテル」の日教組集会を拒否した例をみても分かる。一流ホテルの経営陣も、正義を押し通すのには、勇気が必要なのだ。しかも、正義は押し通せなかったのだ。
氏が提示した課題解決に、学校の道徳教育の充実という矮小化が正しいのかということだ。
社員より、または社会全体の為という理念よりも、マネーゲームによる収支を優先する経済活動とそれを推進しようとするトップや政財界等々。
世の中を変えたいなら、これらの改善に、それぞれの立場から正しい道を探る小さな取り組みの連続が本来的ではないのかと思う。青臭いという批判を受けても、社会の風潮を改善する努力を大人が見せるという姿勢なしには、もはや論説氏のいう理想は実現しないと思う。
そして、その改善に立ち向かう力があるのは、子どもよりも、論説氏のようなペンを持つ方ではないのだろうか。
論説氏には、道徳の充実の理由づけに、戦後社会の完全否定からはじめるという危うさを指摘すべき立場もあるのではないかとも思う。
「朝日新聞」の論説は、指導要領改訂については、教師力の育成という観点に絞っているが、道徳教育にもふれていて、その点を指摘している。道徳教育の充実という方針に至る経緯だ。 誰もが教育基本法の改正と関わっていることはわかっていることだが、それを確認している。この確認が大切だと思う。教育基本法が改正され、「愛国心」が盛り込まれ、今回の指導要領には道徳教育の充実が定められたという流れだ。
道徳の教科化は見送られたが、道徳教育推進教師が学校毎に指定され、全教科を通じて道徳心を教えることになった。武道の必須化もこの流れにあるとし、疑問を呈している。
ただ、もともと学校には、各教科や道徳教育を推進する教師はいたし、道徳教育が教育全体で教えることは行われていた。したがって、指導内容にそれほどの変化はないはずだ。恐ろしいのは、上から被さってくる威圧だ。
私たちは、日々に何も知らずに過ごしているのだから、専門の立場の方には、そういった背景を知らせる配慮もしてほしいと思う。
※ 「福島民報」論説「学習指導要領改定案 道徳の重視は時代の要請(2月21日)」記事