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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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庚申檀古墳②

「大玉村史」には、高橋氏の文章がそのまま紹介されてる。遺跡のある道路を散歩する形で表現されている。「地蔵堂古墳群について」と題された文章は、七ツ坦といわれている地域を、庚申檀古墳から天王檀古墳へ向かう道を散歩するように描写していく。
 この古墳群辺りは、開発が進んでいる中で、比較的景色が想像できる状態に残っているので、その説明が生きてくる。各古墳について立ち止まって説明する中に、現況とのかかわりで、興味ある記載ある。
庚申檀古墳②_a0087378_4334317.jpg
 庚申檀古墳について、先に訪れた時に、調査の跡を見かけた。何の調査か気になっているが、それにヒントになるような手がかりを探してみる。
 氏は、庚申檀古墳について、規模について高さ4m、径16mの円墳とするとして、以下のように記述している。
 
この古墳の南わきにも、台地の突き出しのような形になっていて、円墳1基があり、俗称ゴーザラシと呼んでいる。

 この規模について、現在この古墳の入り口近くに建っている案内板では以下のように記述している。
 後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m
 古墳は前方部の低い前方後円墳と考えられているが、前方部は削平されて一部のみが現存している。築造されたときは、全長50m以上の規模を有していたと考えられる。

 高橋氏が、円墳としているのに対して、案内板は前方後円墳を主張している。現地に行ったときに、可能性として、南側の台地に延びることを想像したが、高橋氏の文章によると、ここにはもう一つの円墳があったということである。確かに調査の跡のマーカーを見てみると、東側に伸ばしている。方墳部分を東側に見た可能性があると思っていると想像する。
 高橋氏の次の描写が生きてくる。
 このところの台地東南に伸び、約200mあり、明治20年東北本線開通により中断されたが、東南端は南北に開けて広く、字竹の花と言う。中世期の舘跡にて、約400年の昔、長尾氏の館にて、長尾を名郷に直したと言い伝えられる。

 ここに、案内板の以下の記述を重ねてみる。
 墳丘には葺き石が残存しており周辺には埴輪片が散見され、埴輪を樹立した古墳であったことがわかる。
 築造年代は、古墳の前方部が低平なこと、円筒埴輪が大きく、焼成に甘さが見られるものが存すること、埴輪片に二次調整の横ハケが見られることなどから、同じ古墳群にある南ノ内の天王檀古墳(5世紀後半頃)より古く、5世紀前半まで遡る可能性がある。

 この古墳は、全長50mの前方後円墳で、敷石で装飾したりしている。そして、この古墳ができて、次に金山古墳、天王檀古墳や二子塚古墳ができたということになれば、時空的に並列にここに円墳があったというイメージとは違ってくる。これら古墳の勢力関係についての影響がありそうな調査だったかもしれないなと勝手に思う。
by shingen1948 | 2008-02-18 04:44 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)