蝦夷であった頃
2008年 02月 16日
この支配と服従の関係が始まる以前が、この地域が蝦夷であった時代ということになるのだろう。ここに平和に暮らしていた人々が蝦夷であり、大和の侵略によってその生活を脅かされた時、どのような対応をするのかということが、生き方ということになるだろうか。最終的に、蝦夷アテルイの生き方のイメージを英雄と見るのであれば、屈辱の歴史の始まりということでもある。
「律令国家とふくしま」(工藤雅樹著)は、この蝦夷のイメージについて、大切に変遷を追って紹介している。そのイメージによると、この地域が、まだ蝦夷であった時代のイメージは次のようだ。
この時代の蝦夷のイメージは、朝廷に敵対することもある強い人たち、恐るべき人々、それ故にいささか敬意を払うべき人たちというニュアンスがあった。
アテルイが象徴する生き方をする人々が、ここに息吹いていたということである。それがこの地域は、早くから大和に逆らって生きることはできなくなる時代に入ったということである。そして、福島県の中通りと浜通が、国造制の支配と服従の施行範囲に属していく。
この時代には、この地域の人々は蝦夷という範囲には含まれなくなっている。従って、蝦夷のイメージは、朝廷の直接支配をうけない外の人たちという点が強く意識されたととのことだ。
一方、大和との関係に生き方を求めた人々については、次のような状況だったようだ。
この時代の国造の任期はなくその地位は終身であり、その地位は代々一族の者に伝えられたという。国造りに任命された豪族には、直や君の姓が与えられ、直は一般の国造り、君は有力な国造りに与えられたという。「ふくしまの歴史」によると信夫の国造は、直であったという。確認はしていないが、安積も同じと思う。
安達太良山麓の埋蔵文化は、これらの人々の足跡が色濃く残っているということだ。