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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安達郡衙分置の意義

 気軽な散策も、古代まで行ってしまうと、重苦しい。気軽に分かったという気になれなくて、どんどん深みに入ってしまう。入ってはみたものの、迷いは深まるばかりでさっぱりしない。
 それにしても、安達太良の山麓は古代遺跡の宝庫というのが、散策しての実感だ。深みにはまって抜け出せないでいる。
 安達郡衙跡の遺跡に立ち寄ったのは、昨年度の12月で、いろいろ書いたが、分かったという実感が持てない。確かめるしかない。まずは、安達郡衙が安積郡衙から分置されるあたりの意義を確かめる。

 いろいろ資料をあさっていて「陸奥南部の郡衙立地条件と水運」(福島県立博物館紀要第15号2000年10月)という報告書をみつけた。これは、平成12年2月に郡山市で行なわれた第26回古代城柵官衙遺跡検討会で発表された内容をもとにした報告書とのことだ。
 この報告書の主旨は、当時の交通手段である水上交通と郡衙立地条件のかかわりを考察するものだが、ここから安達郡衙にかかわる部分を読み取ってみる。

 安達郡は、延喜6年(906)に安積郡から分置されて新設された郡である。この時期の新設は、他に承和7年(840)の耶麻郡が確認されている。また、浜通りの亘理郡衙が、初期の郡衙から33間堂へ移転されてきた時期でもあるようだ。
 この新設や移転の意味だが、陸奥国府が在地の新興勢力層を権力へ取り込むことによって弛緩してきた在地支配を再度強化するための施策と考えられるようだ。今まで大豪族を郡司層として間接的に中小豪族を支配する政策だったのだが、これを機に中小豪族層を直接支配する政策に転換しようとする施策の一つであったようだ。これによって、陸奥の在地への影響力を強化するねらいだったと考えられる。
 ただ、この後、各郡衙とも10世紀前半のうちに機能を停止し、10世紀半ばを境にして郡衙推定遺跡には遺構が確認されなくなるという。

 「郡山台郡衙跡」に立ち寄り、今まで書いてきたことを整理しておく。

○ 12月に「郡山台郡衙跡に立ち寄る」で、安達郡衙遺跡を訪れたことを書いた。
○ 「相生集」 に出てくる長者伝説にふれたくて、「郡山台を訪ねて②」にまとめた。
○ これを書いているときに、白河郡衙とかかわる寺院の発掘調査の記事をみて、「郡山台を訪ねて③<白河の郡衙跡とかかわるニュースから>」としてまとめた。
 歴史的な意義についての実感はまだ持てなかった。
by shingen1948 | 2008-02-11 05:35 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)