時代の変化でも変わらないもの
2008年 02月 10日
その解明に勢いがついたのは、大塚山古墳を中心とした会津の古墳の解明で、予想されていたよりも早くから古墳の時代が存在したことが解明されたということがきっかけになったようだ。旧来、中通りでは、中期から古墳の時代がはじまると考えていたようだ。
昭和47年発行の「図解福島県史」で、そのことを確かめる。「古墳の地域的展開」という章の中で、以下のように記載されている。
中通りの最も古い古墳は、現在発見されているところでは、郡山の正直古墳群がある。田村町の阿武隈川が大きく蛇行している地点に4群の群集墳がある。そのうちの一つが正直古墳群である。中期の古墳である。それが、もっと早くから存在したかも知れないと考えられるようになり、白河、郡山を中心として発掘調査による解明が進んだということのようだ。
安達太良山麓の大玉村本宮町にも多い。中期のものもある。
これとは別に、浜通りの古墳時代の解明は、発電所建設に伴う大規模な地域の発掘調査により、鉄の文化の解明が進んだということのようだ。古代の官営製鉄所であるらしいということが解明されてきているといことのようだ。
こういった状況に伴い、「大玉村史」など古くに出版された書物の内容とずれが生じるのだが、発掘されたことや物、資料など基礎となるデータの記載部分が古くなることはない。
傾城壇古墳について、それらの部分を確認しておく。
「大玉村史」第一節「原始時代の大玉村」に、福島県史第一巻から引用された「本宮・大玉・杉田遺跡・遺物分布表」が掲載されている。その中から、村にある2つの前方後円墳の記載を確かめておく。
二子塚壇古墳
(所在地) 大字大山字小次郎内 (遺跡の種類) 前方後円墳
(立地地目) 山林・墓地
(遺 物) 勾玉・土師器
(備 考) 勾玉のうちヒスイあり
傾城古墳群
(所在地) 大字大山字愛宕 (遺跡の種類) 前方後円墳
(立地地目) 丘陵・山林
(遺 物) 土師器・剣
※ 備考乱には、この前の堂ガ久保古墳群と重なって、昭和39年7月安達高校発掘調査(弥生式土器)との記載がある。
記載に使われた発掘の資料も、その後の新しい考えを証明するのに使われた資料も、髙橋丑太郎氏の発掘資料がほとんど総てであるということも、変わらないものの一つである。