大畑遺跡の墨書土器
2008年 02月 07日
奈良時代に、三世一身法と墾田永年私財法が出された。これによって、田を開いたものは田を自分の土地として所有することが出来るようになった。このことを、この大畑遺跡のところで当てはめてみる。
住居跡は、やや高めの位置に多く出ている。恐らくこのやや高い土地にムラがあったのだろ う。ここに住むムラ人は、近くの低地の部分に耕地を広げたのではないだろうか。
そのうちに、ムラの中で所有する土地に差が生じてきて、沢山の土地を所有する者が村の有力者となっていく。
そのムラの有力者は、灰釉陶器や緑釉陶器を保有することが出来るようになり、住居も大きな掘建柱建物に住むようになるだろうし、有力者の中には、文字もわかる人も出現したということまでの解釈が自然だろうか。
この見方を適用すると、地域では百日川の北側一帯を大まかに捉えて、通称「大畑」と読んでいるということが、納得できる。大畑遺跡のムラの有力者を中心とした人々の耕地が、百日川の北側一帯に広がっていたのではないだろうか。
安達太良山麓埋蔵文化の墨書土器との出会いを整理しておく。
大畑遺跡の墨書土器について書いたのは、「大畑遺跡跡を訪ねる」
この大畑遺跡の墨書土器の現物を、ふるさとホール展示でみつけて書いたのが、『「ふるさとホール」の埋蔵文化展示』
本宮の「墨書土器」が出土した「関畑遺跡」の展示についてふれたのが、「天王壇古墳の出土遺物の展示を見る。~本宮の「歴史民俗資料館」