古墳時代、住吉遺跡は地域の中心地かな
2008年 01月 21日
「古墳時代の住居」を書いた時点では、このことが次のように混乱していた。
住吉遺跡の位置は、報告書によって微妙に違う。下舘跡発掘調査報告書では住吉集落である現コンビニの信号のある交叉点の南側にプロットしているし、上ノ台遺跡発掘調査では、その角を岳温泉方面に通じる道路と玉井方向へ分かれる道路の交叉点から、細道に入って直ぐの位置にプロットしている。まほろん遺跡データベース詳細情報表示をも考慮すると、上ノ台遺跡発掘調査で示す位置なのではないかと推定される。
正解は、岳温泉方面に通じる道路と玉井方向へ分かれる道路の交叉点から、細道に入って直ぐの位置にプロットされた位置は住吉遺跡であり、住吉B遺跡は、現コンビニの信号のある交叉点の南側にプロットされたところである。
この住吉B遺跡発掘調査報告書の中で興味惹かれるのは、竪穴住居跡19号住居跡だ。一辺7mと大きい規模である。東カマドで、6本の主柱で屋根を支えていたと想像されている竪穴住居だ。南壁には張り出しピットもあり、中央から北に溝があり、これを間仕切りのためにできたと想像のようだ。
報告書の結論は、石製模造品の製造にかかわる住居跡跡とした。論拠は、出土遺物にその原石・剥辺・未製品がみられたこととしている。
このことの意味を、「ふくしまの歴史」ダイジェスト版を読んで自分なりに感じることができた。
「古墳時代のムラ」に、以下のような「まつり」についての説明がある。
弥生時代には、有力者が剣・鏡・玉を使ってまつりをおこなっていました。しかし、古墳時代になると、滑石と呼ばれる柔らかい石で剣・鏡・玉を模した道具が使われるようになりました。紐を通して樹の枝につるし、使用したものと考えられます。まつりに使う道具が、身近に手に入る材料で、ムラの中で作られ、ムラのまつりがおこなわれるようになったのです。
調査した方は、もう一つ別の期待があったのではないかと想像する。それは、竪穴住居は、1辺が4~5mの大きさが一般的であり、家の中には壁がないというのが普通だからだ。「ふくしまの歴史」ダイジェスト版では、福島の古墳について次のような期待感を込めた記載がある。
福島の野田町にある勝口前畑遺跡から1辺7mを越え、須恵器を持った家があり、ムラを支配する有力な人の家と想像できないか検討した記述だ。まつりの場や倉が敷地内にあることや豪族の家を取り囲む溝があることなどの発見ができないので、今のところ違うのではないかとされているらしいのだが。
もしかして豪族の家ではという期待もあったのではないかというわくわく感を想像する。