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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山と戊辰戦争

 今年の「会津への道(戊辰戦争)」を、「信夫山と戊辰戦争」ということで締めくくってみる。
 信夫山の象徴的な羽黒大権現と明治の国家新道政策とのかかわりについては、以下の「半沢氏の信夫山フィールドワーク」のメモが要を得ている。
 明治初期は、国家神道政策が荒れ狂い、神仏分離が厳しく実施され、羽黒大権現は神社とされて六供の修験者たちは還俗し、農民となって姿を消し、仁王門や鐘楼が取り壊された。そして、信夫山の本地仏でもある「こもかぶり観音」が、清明町の真淨院に移された。

信夫山と戊辰戦争_a0087378_335451.jpg
 明治の国家新道政策が、神々と修験の山という信夫山の特徴を変質させる。
 明治12年招魂社が創建されたのだ。ここでは、毎年、会津落城の日を祭日として祝い続けられた。祀られたのは、戊辰の役関係では、参謀世良修蔵以下768柱とのことだ。
 先に、浅草屋宇一郎は世良を暗殺したことを後悔し、世良の位牌を大切にしていたということについて「世良修三暗殺事件で気になること:仙台藩に密書が渡った事情」で触れたことがある。その時、世良の使命を理解できなかったことへの後悔だったと考えるのは違うのではないかとした。そこでは、河野広中を中心とした自由民権運動の人々との付き合いの影響が大きいと見たが、そのことに、信夫山の神々の変質を加えたい。

 福島の神々と修験の山である信夫山という場所に、国家が会津落城の日を祭日とした招魂社を創建した。その英霊とは、世良修蔵と官軍の戦死者である。そして、西南戦争の政府軍の戦死者である。これが大きく影響しないはずはない。国家に逆らおうという大胆さはないはずだと思うのだ。
 この招魂社は、昭和14年には、県護国神社に昇格していく。曖昧な形にはしているが、福島県はこの時から会津落城の日を祝うようになったのだ。
 国としてはどうでもいい小さいことだが、人々の信仰の変更を押し付けるということでは大きな出来事は、村社瀧洞神社の五十沢の滝不動が、神格化されてしまったことだろうか。
 
 メモに残っていた以下の説明をする案内板が建っていたのは、護国神社の前だっただろうか。
 護国神社は、信夫山公園愛宕山広場の北側に鎮座する。明治12年10月勧請、官祭信夫山招魂社と言ったが、昭和14年4月から福島県護国神社と改められた。拝殿は、入母屋造り据破風をつけ、左右に鳳凰堂を想わせる翼廊がある。                       
 国難に忠節を誓い戦って倒れた兵の英霊を慰める思し召しで建立された。             祭 神  国難死節霊                      
 戊辰の役 参謀世良修蔵以下768柱               
 西南の役 陸軍歩兵少尉小早川次郎以下176柱          
 以下国の戦争によって忠死したる英霊を合祀してきた。       
 祭 日  春季例祭  4月23~24日             
  秋季例祭  9月23日      
by shingen1948 | 2007-12-28 04:05 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)