地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鹿子田氏墓に立ち寄る

本宮宿の街道は、本宮城のところで鉤型の曲がり角になって、杉田宿に向かう。その鉤型になっているところから、新たに通路が延びて、東には白沢に向かい、西には大玉村に向かう県道になっている。
その大玉に抜ける県道沿いにある案内板が気になって足をとめて確かめたことを、思い出した。
「鹿子田氏の墓跡」となっていた。
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  本宮城を訪ねたことで、鹿子田氏は、鹿子田館の主であること理解したが、この時は、鹿子田氏が何者かを把握していなかった。

 案内板では、以下のように説明されていた。

「鹿子田氏の墓跡」
  鹿子田氏は奥州探題畠山氏の支族で、鹿の子田館の館主として当地方を何代も続けて治めてきた一族である。
  天正年間(1573-1592)鹿の子田和泉は、自分の領地の灌漑用水を確保するため、鴫又堰の水路を伸ばして通すことを計画した。皿久保(現大玉村)の館主鈴木帯刀と話し合い、すでにあった水路と百日川の間200㍍を一気に作り水を通すことに成功したと伝えられている。
  昭和和4年(1929)5月鹿子田堰保存会によって碑が建てられその整備が行われた。
                             本宮町教育委員会
 治水など、民に感謝される仕事をしながらこの地をまじめに治めていただろうことが伺える。しかし、畠山氏と親族関係とはいえ、治める地域は伊達氏が畠山氏が頼りとする連合軍と対峙する重要な位置にある。会津をねらってけん制する伊達氏に、素知らぬふりも出来ない弱小館主を思うと哀れささえ感じる。
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Commented at 2012-07-06 12:31 x
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Commented by shingen1948 at 2012-07-07 16:38
 情報ありがとうございます。史跡めぐりがルーツ探しと重なるというのは羨ましいですね。
 資料で、「金山町蒲生(山之内) 鈴木帯刀」と「蒲生村柵 東西二十三(三十三)間南北二十二(二十三)間元亀元年庚午鈴木帯刀住す」確認しました。

 ここでは、案内板の解説の紹介としていますが、実際は「大玉村水利事業史」でも確認しています。この根拠資料は、「安達太良神社文書」元禄6年5月の「覚」に記載された内容のようです。

 なお、こちらの鈴木帯刀にかかわる情報では、天正13年10月粟の巣古戦場で、皿久保鈴木義人は、下館、椚山と共に戦死したとあります(大玉村史)。
 今後ともいろいろ教えてください。
Commented by shingen1948 at 2012-07-07 16:46
(追)この鹿子田堰取り水口は、皿久保舘跡の道を挟んだ民家の北側にあります。機会があれば、……。
Commented at 2012-07-11 16:51 x
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Commented by shingen1948 at 2012-07-24 13:27
情報ありがとうございます。

蒲生村柵の情報など、大玉村史の情報より確からしさが高そうに思いますが、ただ、見方が固まっているせいか、その前に、畠山氏が会津葦名氏をたよる動きとの関連がイメージしてしまうのですがどうでしょうか。
粟の巣古戦場にかかわる地方紙のニュース等で、会津の2つの大手酒屋さんのご先祖さんにも、この関連の動きを感じているところなのですが、……。
Commented at 2012-08-08 22:45 x
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Commented by shingen1948 at 2012-08-12 06:13
手賀沼の竿師さんとのイメージの違いを確認します。
手賀沼の竿師さんは、葦名氏とのかかわりが先にあって、皿久保に在地すると見ているように思います。
当方は、まず鈴木帯刀は皿久保に在地していたという事実があって、その後に「金山町蒲生(山之内) 鈴木帯刀」と「蒲生村柵 東西二十三(三十三)間南北二十二(二十三)間元亀元年庚午鈴木帯刀住すという事実があるとイメージしています。それで、移動理由ということに関心が向いているという違いがあるように思います。
(そう思う理由は、次のコメントで)
Commented by shingen1948 at 2012-08-12 06:14
 そう思う理由は、素人ですので確実な事は分かりませんが、二つです。
 その一つが、畠山氏の支族である鹿子田氏が、わざわざ皿久保の館主鈴木帯刀に鴫又堰の水路相談をしていること。
 その二が、天正13年10月粟の巣の戦いに鈴木義人は、下館、椚山と共に参加したらしいとの情報があること。
 この情報の中の戦死ということは、その後、伊達氏との戦闘に参加され、蒲生村柵に住すという情報から誤りの様ですが、村史は椚山の情報からの推測部分の誤りだと想像しています。

 これらを整理すると、畠山氏が葦名氏を頼って会津に移動したこととのかかわりが想像できるということだと思っています。会津に移動後は、手賀沼の竿師さんの情報でイメージしています。
 会津の酒屋さんの例を出したのは、移動後、そのまま会津に在地のイメージはその時代、不自然ではないということではないかという思いです。
Commented at 2012-08-17 15:18 x
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Commented at 2012-08-17 15:19 x
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by shingen1948 | 2007-11-23 04:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(10)