小手森城に立ち寄る
2007年 11月 13日
山道に入ると直ぐに小手森城址へ誘導する看板が建っていた。愛宕山の参道のようだった。鳥居の間に細い急な坂道があった。ここを登るらしい。ひるまずに登ってみると、道路が横切っている所に出る。
それでも更に、急な坂道が続く。更に登ると、石段があって主郭部には愛宕神社が建っていると聞いていたが、時間がなかったので、ここから引き返す。
この城は、天正13年(1585)伊達政宗による全城兵の殺戮で有名なところだ。
城主菊池氏や大内定綱の親類など500人を討ち取ったほか、城内にいたものは女や子供を問わず犬に至るまで全て撫で斬りにしたという。大内定綱はもとより、周辺の大名や住民にも強烈な印象を残し、後世まで語り継がれることになったという。
安達地区にある伊達政宗の話は、このときの残忍なまでの徹底ぶりのイメージで語られているものが多い。
この時代、この地域は小浜城主大内氏の支配地域であった。小手森城は小浜城の支城で、菊池氏が城を守っていた。
伊達政宗は、小浜城主大内定綱攻撃のため、河股方面から塩松に攻め入った。政宗は、自ら最前線に立ち、総攻撃をかけ、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。この時に、上記の殺戮が行なわれたということだ。
その後、小浜城も落城して塩松地域は政宗の所領となった。
この城の悲劇はまだ終わらない。
天正16年(1588)に、功によって政宗から小手森城を与えられて塩松を守っていた石川弾正は、白石宗実の与力にされたことに不満をもっていたとのことだ。それで相馬義胤の誘いに応じて伊達勢に反旗をひるがえすのだが、政宗はこれを攻撃して、落城させる。
その後は、この城は廃城になったとのことだ。