伊達家発祥の地「高子岡城跡」を訪ねる
2007年 10月 19日
伊達市の「歴史めぐり」によれば、伊達氏の祖、朝宗が高子ケ岡に勧請したとされる亀岡八幡宮は、伊達氏の本拠地が変わるたびに還宮され、梁川城築城の際に梁川八幡に合祀されたという。そこで、まず伊達家発祥の地である高子岡城跡に行ってみることにした。
阿武隈急行線に乗ると、高子駅で[伊達家発祥の地「高子」]というアナンスが流れる。この駅で降りると、目の前に見える丘が、高子岡城跡であろうことは直ぐ分かる。
その丘をぐるりと回って、全体を確認する。そして、近所を散歩して、雰囲気に浸った後、八幡宮の鳥居のところから、山頂を目指すことにする。
八幡宮の鳥居のところに高子岡城跡についての案内板が立っていた。
高子岡城跡 伊達家発祥の地
所在地 保原町大字上保原字丹露盤・高子
高子岡城跡(高子舘跡ともいう)は、伊達家の始祖伊達朝宗(中村入道念西)の居城跡と伝えられている。城域は北に張り出した小丘の一帯で、北西側は断崖となっている。頂上から伊達平野が一望できる。
念西は、文治5年(11889)の奥州合戦に子息を率いて参加、源頼朝方として伊達郡厚樫山の合戦等で戦功をあげた。よって伊達郡を賜り、高子岡に城を築いて移住、中村の姓を伊達と改めた。山上に鎮座する八幡宮は、このとき、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものという。この社は亀岡八幡宮とも呼ばれ、伊達家の移遷とともに移って、現在は仙台市川内亀岡町に鎮座している。念西の墓は桑折町の万正寺(満勝寺跡)に、念西夫人の墓は国見町の光明寺(福聚寺)にある。
平成15年4月
保原町教育委員会
ここから、山頂に向かう。イベントがあったらしく、整備されていて歩きやすくなっていた。
山頂からは、伊達が一望できた。