飯坂温泉と土湯温泉:飯坂こけし
2007年 09月 26日
明治32年に、土湯の工人である渡辺作蔵の二男角治(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきた。これは、土湯温泉から飯坂温泉に移ってきた中村屋旅館の主人阿部与右衛門の口利きがあったという。そして、作蔵は、キン(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年頃から木地業山根屋を開業する。 ここでといわれるこけしを、角治が木地を挽き、キンが描彩してつくっていたとのことだ。角治が大量に木地を挽いていたので、角治が亡くなった後も、キンは、描彩を続けることができたという。
今は飯坂を散策しても、こけし作りの気配は感じられない。興味は、二つ。一つは、飯坂こけしの存在で、もう一つは、土湯こけしの飯坂進出に手を貸した中村屋という旅館。
鯖湖湯の前に建つ中村屋は、趣のある白壁のどっしりとした造りで、前から気になっていた。
秋分の日に、自転車で出かけ、鯖湖湯の脇の足湯に浸かりながら、この建物をゆっくりと眺めてみた。、「鯖湖こけし」の気配は感じなかったが、前に鯖湖湯に入ったときのことを思い出した。鯖湖湯の温泉分析表の標示板は、どっしりとした木製であった事が、強烈に頭に残っていた。また、近所の古い店の看板にも木製でがっちりしたものをが心のどこかで気になっていた。それを、自分の頭で、木地師の存在の想像と結びつけられなかったのだ。 そこは、探索の弱さで、反省点だ。
中村屋のホームページには、旅館の沿革について以下のように紹介していた。
初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。
この度重なる洪水に見切りをつけたのは、明治22年の水害の時点のようである。
今日は、共同浴場「八幡の湯」で疲れを癒して帰る。
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