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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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無名館と自由民権新聞発行

 福島人は、時代の動きには敏感ではないのに、置かれた環境によって、時代の先端にならされてしまう運命にあったようで、今もそんな雰囲気があるのではないかと感じている。

 会津の凄惨な戦争のきっかけともいうべき、列藩同盟のきっかけになった、世良修造の暗殺にしても、積極的に関わりたかったわけではなかった。自由民権運動も似たような状況らしい。積極的に関わりたいわけではない。県庁があるので、環境的に運動が盛んであるのだが、地元に壮士がいるわけでもシンパがいるわけでもない。それでも、自由民権のスタートに係わってしまうということのようだ。
 活発な演説会も、新聞発行なども、福島という地を借りて、他の地区の人々が活躍しているということだ。

 「風雲・ふくしまの民権壮士」によると、自由民権運動の実務的な関わりで重要な役割を果たしたのは、二本松の平島松男とのことだ。
無名館と自由民権新聞発行_a0087378_5304194.jpg 自由党福島部の結成、福島自由新聞の発刊、本部無名館の設置など実務的な者に係わっていたとのことである。福島事件では河野とともに最高の責任を負わされて、仙台集治監に6年入獄したという。福島の自由党本部無名館に常駐し、県下の自由党員を指導していたという。無名館には、他県人の花香恭次郎、佐藤清等論客がいて、専従の形で政断演説会で熱弁をふるっていたという。
 この自由党本部無名館は、半沢氏のフィールドワーク地図によれば、現在の水道局辺りだろうと推定できる。

 福島自由新聞の記者として活躍した沢田清之助も二本松出身とのことだ。彼は、7歳の時、戊辰戦争で父を失い、生活の辛酸をなめたことが、薩長藩閥を憎み、その手先である三島県令に抵抗したという動機を推定している。彼も、新聞の編集、平島の党務の実務手伝い、尾上座で弁士に立つ活躍だったという。
無名館と自由民権新聞発行_a0087378_5202964.jpg
 この福島自由新聞の印刷所は、半沢氏の地図によれば、現在の第一生命ビルのあたりだという。ここは、福島初の印刷所であり、「福島自由新聞」の印刷に協力したのは竹内専蔵という地元の印刷屋だ。彼は、運動に関わりの少ない福島人の中で、写真家の田村鉄三、客自軒の主人で、尾上座の主人である井上康五郎とともに、自由党に味方したとして、警察に捕らえられ会津に護送されている中の一人である。
 ただ、田村鉄三は、福島人とはいっても、出身は三春である。三春藩士田村喜平の三男として安政6年に生まれている。その後上京して写真業を学んだ。福島で写真業を開業したのは、明治12~13年に姉が稲荷神社神官丹治経雄に嫁いだのを縁にしたとのことである。
by shingen1948 | 2007-08-30 05:34 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)