地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

三春の反同盟と奥羽越列藩同盟軍の降伏

三春に住んでいるときも、安達郡に関わりをもっても、どこかで聞いたような気もするが、それでも、日常的に戊辰戦争で三春藩が裏切ったという話が出てくることはなかった。 こうして、二本松地域のことについて資料を確認していくと、その記載が目に付くようになる。

 慶応4年7月16日、棚倉が落ち、浅川の町を占領した新政府軍と、古舘山にいた会津・仙台兵が、戦闘状態になった。同盟軍から三春藩に会津・仙台兵への応援が命じられた。ところがその命令に従って城山に到着した三春兵は、新政府軍と会津・仙台兵を挟み撃ちにしたということである。

  福島地方の歴史物語のホームページ(http://www.kiriya.ne.jp/ )によると、三春町史には、以下のように述べられているとのことだ。
 二足の草鞋をはいた三春藩は、棚倉の戦いで同盟諸藩とともに政府軍に抵抗した廉で、在京の秋田広記らは禁足他藩出入差し止めを命ぜられたり、七月十六日浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事係不破幾馬らが弁明して事なきを得た。みずから矛盾を求め、薄氷を踏む演出は御家安泰のためになおも続くのである。(中略)複雑微妙、藩論を内外に明らかにし得ず、ついに政府軍の三春入城の日まで疑心暗鬼が続くのである。「会津猪 仙台むじな 三春狐にだまされた 二本松丸で了簡違い棒(違い棒は二本松藩主・丹羽氏の家紋)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」。この歌にある「三春狐」をどうみるか。激動する戦乱の中で歴史の大河に竿さし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であれば、それでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の町民が判断すればよいことである。

 東軍は、戦況が日々に悪化していたが、三春藩の反盟が決定的にした。仙・米・会の連合軍が敗れて、孤立した守山藩は降伏、続いて相馬藩も孤立し、同盟を脱して官軍に降伏していくことになる。
 この三春藩の反盟には、自由民権運動の運動家、河野広中もかかわっているらしい。彼は、16才で水戸天狗党への参加をはかり、18才の時、棚倉城を落として陣営を構えている参謀板垣退助に合い、三春藩の無血帰順を交渉する一行に加わっていたということだ。

  さて、三春藩の判断だが、単純な考察では批判できないようだ。

 もともと、戊辰戦争のスタートが、信義の全うからはほど遠いものだ。将軍の御身安泰の無血開城から始まっているのだから。ボタンの掛け違いもあるし、目前の状況が転々と変わるということもある。
  仙台藩から二本松藩を通して伝わる伝達内容も、会津を討つ内容が流れたり、討つという形をとりながら討つなという伝達が流れたり、奥羽越列藩同盟で結束しようという伝達が流れたりしている。そういった混乱の中での判断だったということだ。

 今までの方針や指示を忠実に実施していると、それはこれからは間違っていたということになる。これからの指示が正しいのだが、今はどういう指示にするかは、具体的には決めていないという情報の混乱は、今の時代と同じような命令の伝達の中と同じような状況といったら分かりやすいかもしれない。
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Commented by taiseiasakura at 2007-08-18 10:40
私は30年も前になりますが、二本松市にある安達高校へ通っていました。(出身は昔風に言うと山入村です)
その頃は二本松藩士の子孫だという先生が居て、常々三春の裏切り行為について話をしていました。
その象徴となる言葉が「三春から嫁をもらうな」でしょうか、今でも年配の方々は三春に対して良い感情は持っていないようで、「三春から嫁・・・」の言葉を聴く事があります。
Commented by shingen1948 at 2007-08-23 18:31
コメントありがとうございます。今も二本松にも恨みが、残っているんですね。地域の人でないと聞けませんよね。
会津にいたころを思い出します。表面的には出ませんが、戊辰戦争後に略奪した商人の県人を恨んでいます。そ知らぬ顔で遠回りしてやったわいと鬱憤を晴らすタクシー。あばら骨が一本足りないと、本気で考えているお年寄り。確かに、嫁に貰うなどとはとんでもないという話でした。想像できます。
by shingen1948 | 2007-07-05 19:13 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)